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「あいつを殺してやりたい!」野村克也監督の激怒に大慌て…元ヤクルト監督・真中満がノムさんに学んで2年連続最下位→優勝させた「選手操縦術」
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph byHideki Sugiyama
posted2025/05/07 11:02

1997年日本シリーズ第2戦。このシリーズ全試合に1番センターで出場した真中満が野村克也監督から受けた影響は大きいという
「“殺してやりたい”だなんて言い過ぎたな、と謝られたくらい。しかもその日の試合もスタメンに名前があったんですよ。野村さんはマスコミを上手に使って選手にメッセージを伝えたりする監督でしたけど、ボロクソに言った選手は必ず次の試合で使う。そういう意味でも、選手を引き締めたり、その気にさせたり、という操縦が本当にうまかったなと思いますね」
「暇だから(笑)」作戦を考えていた選手生活後半
プロ10年目以降は代打での出場が増え、2007年にはシーズン代打起用回数(98試合)、代打安打数(31)で当時の日本記録をマーク。勝負強いバッティングから「代打の切り札」として活躍した。実は真中氏はこの頃から、「監督」を意識した視点を持っていたのだという。
「自分が監督だったらこんなオーダーを組むかな、とか、この場面ならこんな作戦をするなとか考えながら試合を見ていました。きっかけは、暇だから(笑)。出番があっても5回以降ですから、それまでベンチで暇なんですよ。何か考えていないと眠くなるしさ(笑)。僕ならこうするなと常に考えて試合を見るようにしていました」
二軍で多くのことを学んで
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現役晩年の頃からあらためて野球を深く学ぶようになり、08年シーズン限りで現役を引退するとすぐに指導者の道を歩み始めた。09年から二軍打撃コーチ、2011年には二軍監督に就任し若手選手の育成に尽力した。
「勝つために戦う一軍と、若い選手を起用して育てることが目的である二軍と、采配の面では全く違いますけど学んだことは多かったです。一番良かったのは、のちに一軍のコーチや監督になった時に、二軍の事情や首脳陣の感覚が理解できたこと。この違いが分かると分からないとでは、コミュニケーション面でも大きな差が出てきますからね」
一軍打撃コーチを務めていた2014年秋、真中氏は一軍監督就任の要請を受ける。2年連続最下位だったチームの再建を託されたが「全く迷いはなかった」という。就任後、まず打ち出した“真中色”は、「練習の効率化」や「虚礼廃止」。10年後の現在のトレンドを先取りしていたかのような「タイパ重視」、「成果主義」の方針は、驚きの理由から生み出されていた。

