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日本で初めてブーイングを浴びたプロレスラーとは? ファンから“否定された”ジャンボ鶴田が「完全無欠のエース」になった理由
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/03/06 11:03

1989年6月5日、ジャンボ鶴田と天龍源一郎の三冠ヘビー級選手権試合
日本のプロレスで初めて大きなブーイングが起こったのは1989年2月25日、全日本プロレスの後楽園ホール大会。王者マイティ井上に百田光雄が初挑戦した世界ジュニアタイトルマッチだった。
昭和の全日本で、長らく第1試合で黙々と試合をしていた百田光雄が、当時、後楽園ホールのマニアの間で“午後6時半の男”として突如局地的なブレイクを果たし、本来会場が静かなはずの前座第1試合で「百田」コールが起こるようになっていた。
それを受けて、“万年前座レスラー”だった百田のまさかの世界ジュニア王座初挑戦が実現。百田への大コールとともに、王者マイティに対しては観客から「Boo~!」という声が飛んだ。これこそが、日本における最初の本格的なブーイングだった。
アメリカ式の「Boo~!」が沸き起こった裏側
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このブーイングがさらに大きくなったのが、この日のメインイベント、ジャンボ鶴田&谷津嘉章の「五輪コンビ」にジャイアント馬場&ラッシャー木村の「義兄弟」コンビが挑戦した世界タッグタイトルマッチ。
馬場と木村は当時、すでにメインイベントやタイトル戦線から退いていたが、この前年、木村の「馬場! おまえのことを一度でいいから兄貴と呼ばせてくれよ」というマイクパフォーマンスがきっかけとなり義兄弟コンビとして「世界最強タッグ決定リーグ戦」への出場が決まると、人気が爆発。それを受けてこの日、世界タッグ王座に初挑戦すると案の定、馬場&木村に声援が集中し、鶴田&谷津は攻撃をするたびにブーイングを浴びることとなったのだ。
では、なぜ「Boo~!」というアメリカ式の意思表示がこの時にされたのか。じつはこの前の週、天龍源一郎がアメリカ・オハイオ州クリーブランドで行われた米メジャー団体NWAのビッグマッチに出場。ザ・ロード・ウォリアーズと夢のトリオを結成してスティング&ジャンクヤード・ドッグ&マイケル・ヘイズと対戦した試合が、日本テレビ『全日本プロレス中継』内で放送され、アメリカの会場の盛り上がり方を日本のファンが体感したばかりだった。それを後楽園のマニアが取り入れるかたちで「Boo~!」というブーイングを起こし、瞬く間にプロレス界に定着していったのである。
日本初のブーイングは百田光雄と馬場&木村への判官贔屓から、その対戦相手に向けて起こったものだった。マイティも鶴田&谷津も何も悪いことはしていないので罵声を浴びることはなかったが、百田、馬場&木村への支持を表明する声援だけでなく、マイティ、鶴田&谷津に対する「不支持」を表明する方法としてブーイングは最適だったのだろう。
開き直った鶴田の大暴れ…観客を圧倒した日
こうして日本のプロレス界でもブーイングが定着していくが、その最初のターゲットとなったのはヒールではなく、全日本のエースである五輪コンビ、とくにジャンボ鶴田だった。体格と才能に誰よりも恵まれているにも関わらず、決してプロレスに本気にならず常に省エネファイトを続けている(ように見えた)鶴田に対し、ついにファンが「NO」を突きつけるかたちで大ブーイングが起こるようになったのだ。