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〈消えた天才〉「理由は…いじめではないです」なぜ甲子園史上最高のセカンドは早大中退→23歳引退の半年後ヤマハ退職→福祉の道に進んだか
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間淳Jun Aida
photograph byJIJI PRESS
posted2025/02/25 11:01
常葉菊川時代の町田友潤さん。センバツ優勝、夏準優勝を経験した名二塁手はなぜ23歳で野球を引退したか
ヤマハは毎年のように“大人の甲子園”とも言われる都市対抗野球に出場し、プロも輩出している社会人野球の強豪だ。レギュラーをつかむのは簡単ではない。競争に勝てないと悟った町田さんは潔くユニホームを脱ぐ覚悟を決めた。23歳だった。
周囲からは引退には早すぎると言われる年齢にも「自分にできることはやり切りました」と後悔や未練はなかった。
経理担当したが周囲との能力差は歴然
社会人の選手は野球部を退くと、他の社員と同じように社業に専念する形となる。それまでの午前中は仕事、午後から野球の練習という生活サイクルは大きく変わり、会社側から求められる業務も当然増える。
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町田さんは本社で経理を担当した。
野球一筋の人生を歩んできた町田さんには簿記や会計の知識はない。高校も大学も勉強に時間を割き、就職活動にも力を注いできた周囲の社員と能力差は歴然。町田さんは会社の戦力になれない心苦しさでいっぱいだった。
「ヤマハは海外とも取引のある企業なので、社内では日常的に英語が飛び交っていました。自分が働く場所ではないと、すぐに分かりました。私は野球で貢献しようと思ってヤマハに入社したので、引退と同時に『自分は何のためにヤマハに残るのか』とも感じていました」
町田さんの決断は早かった。半年ほどで退職し、次の道へ進んだ。第2の人生で挑戦したい仕事は決まっていた。ヤマハでサラリーマン生活を送る中、胸の中にあった思いが、どんどん膨らんでいた。
思い出したのは高校時代、ある子どもとの触れ合い
時は2007年、町田さんが高校1年生から2年生になる春、センバツで優勝を果たした時に戻る。
地元に戻った常葉菊川は、学校で開いた報告会で市民から祝福を受けた。「おめでとう」という声に加えて、多くの人たちから「ありがとう」と感謝された。報告会を終えて寮に戻ろうとした町田さんは、男の子を連れた母親に声をかけられた。
「町田さんのプレーに勇気をもらいました。息子と一緒にテレビで試合を見て、応援していました。ありがとうございました」
男の子には知的障害があった。

