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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「年俸3400万円から月給12万円に」巨人の選手からうどん屋に転身「立ち仕事は野球の練習より辛い…」條辺剛が“うどん作り”に魅せられるまで
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/12/28 17:26
2001年6月、中日戦で好投し阿部慎之助(現巨人監督)とハイタッチを交わす当時20歳の條辺剛。引退後、なぜ“うどんの道”に進んだのか
うどんに魅せられた條辺「本場の讃岐うどんを学びたい」
24歳の秋に戦力外通告を受けた。再就職先として同郷の先輩・水野から紹介されたのは、まったく予期していなかった「宮崎のうどん店」だった。当時のことを條辺が述懐する。
「小学校の卒業文集に“飲食店をやりたい”と書いたのは、キッチンで料理をしている自分をイメージしていたからです。そんなことを話したら、水野さんから勧められたのが、水野さんの知人が関係しているうどん店でした。何もせずにじっとしているのなら、まずはうどん屋さんで修業する。そうすれば引き出しも増えるし、後々のためにもなる。そんな思いで宮崎に行くことにしました」
当時の條辺は独身だったので、単身、宮崎に乗り込んだ。現役時代にはキャンプ地として何度も訪れた場所だ。ジャイアンツ時代には最高で年俸3400万円を手にしていた條辺は、月給12万円で、第二のステージに臨むことになった。
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「たまにお客さんの前に出ることもあったけど、僕は主に工場で麺作りに励みました。長靴を履いてずっと立ちっ放しです。現役をやめたばかりでしたけど、決められたエリア内でずっと立ち仕事をするのは肉体的にも辛かったです。グラウンドを走ったり、ブルペンで投げたりする方が全然ラクでした」
05年12月に単身で乗り込み、まずは1週間働いた。そして、翌06年1月からスタートした本格的な修業は半年ほど続いた。ここで條辺は意外な提案を受ける。
「もう1店舗出すことになって、社長から“内装から何から全部好きにしていいから、お前に任せたい”と言われました。とてもありがたい申し出だったんですけど、この頃にはうどん作りが面白くなってきて、“やっぱり、本場の讃岐うどんを学びたい”という思いが芽生えていたんです」
四国・徳島出身の條辺にとって、讃岐うどんは幼い頃からなじみがあった。「本格的にうどん作りを極めたい」という思いが芽生えるとともに、社長からの申し出を断ることを決めた。
「本当にありがたいお話だったんですけど、すでに“讃岐うどんを学びたい”と思っていたので、“こんな気持ちのままではお受けできないな”と思って、丁重にお断りしました」
宮崎を訪れたときには「後々のために引き出しが増えればいいな」と考えていた條辺は、この時点ですでにうどん作りに魅了されていたのだ。
<続きは書籍でお楽しみください>
『道を拓く 元プロ野球選手の転職』(長谷川晶一著/扶桑社)

