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「スクール水着でいけると(笑)」15歳の長与千種が、全日本女子プロレスから“逃げた”日…「先輩も同期も1回は逃げてる」本人が明かすウラ話
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堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2024/12/01 17:00
芸能人水泳大会に出場した際のクラッシュ・ギャルズ
長与 ちょっとでも息抜きがしたいじゃないですか。だから田舎に電話したり、友達に電話したりするための10円玉が必需品でしたね。でも、すぐ電話機がいっぱいになっちゃうんですよ(笑)。
ガンツ 10円玉で満タンになっちゃう(笑)。
長与 だから毎回、「すいません、10円玉取り出してください」って言ってました。
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玉袋 そうか、テレカだってない時代だもんな~。
長与 また、普通の公衆電話ならいいんですけど、フェリーで移動中の電話とかだと、10円玉の減りが早い早い(笑)。超高速。
スクール水着でいけると思ってた、ホントに(笑)
玉袋 また長与さんは、スーパースターになる前の人生がすげえんだ。いろいろ本も読ませてもらったんですけど、家族も離れ離れになって、度胸一発で中学を出てすぐ全女に入ったっつうね。もう「そこしかなかった」というところに凄さを感じるな~。
長与 そうです、生きていくにはそこしかなかったんです。自分でお金を稼ぐといっても何か一芸に秀でているわけでもないし。でも、女子プロレスなら、とりあえず年齢が若くて体力的な部分があれば大丈夫と思ってましたし。あとはスクール水着でいけると思ってた、ホントに(笑)。
ガンツ 水着1枚あればなんとかなる、と(笑)。
玉袋 身体ひとつで、元手がいらねえ商売っていうね(笑)。
長与 昭和55年の田舎の中学生でしたから。なんにも知らなかったんですよ。
ガンツ でも、昭和55年といったら、1980年。日本はずっと景気が上向きで盛り上がってる中、ずいぶんハングリーだったんですね。
長与 世間は盛り上がってても、女子プロは盛り下がってましたから(笑)。
ガンツ ビューティ・ペアブームが去ったあとのどん底時代(笑)。
帰る場所がない。私の居場所はそこ(全女)しかない
長与 お客さんが50人しかいないなんてしょっちゅうでしたから。そんな中、これは伝説なんですけど、私たち新人は、ひとりがパンフレットを30部ずつ持って、売って歩くんですよ。観客が50人しかいないのに、新人は10何人もいましたから(笑)。
玉袋 需要と供給がまったく合ってないよ!(笑)。
長与 でも、お客さんでもいいお父さんは、私たちが必死で売って歩くんで、2部とか3部買ってくれたりするんですよ。そこが昭和のいいところ。甘えていいところだった。
玉袋 いい! これで買ってもらえなかったら、『マッチ売りの少女』の世界だもんなあ。
ガンツ パンフを抱えて野垂れ死んでたかもしれない(笑)。

