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83歳で電流爆破のリングに…ドリー・ファンク・ジュニアが叫んだ“信念”とは?「まだ、死ねない」ステージ4のがんと闘う愛弟子へのメッセージ

posted2024/08/31 17:00

 
83歳で電流爆破のリングに…ドリー・ファンク・ジュニアが叫んだ“信念”とは?「まだ、死ねない」ステージ4のがんと闘う愛弟子へのメッセージ<Number Web> photograph by Essei Hara

ドリー・ファンク・ジュニアの背中に電流爆破バットを振る大仁田厚。8月24日、富士通スタジアム川崎

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

 NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアが初めて日本にやってきたのは1969年11月だった。ドリーはその2月にジン・キニスキーを倒して新王者になって10カ月目だった。

 当時28歳のドリーは日本プロレス時代のアントニオ猪木やジャイアント馬場と戦うために来日した。

83歳で電流爆破のリングに…ドリーの偉大な足跡

 12月2日に大阪府立体育会館で行われた猪木との60分3本勝負はフルタイムのノーフォールだった。筆者はこの試合の結果を翌朝のニュースで知った後、ずいぶん経ってからテレビで見た。

 翌年、8月2日の福岡での再戦では1-1の後、60分時間切れで決着することはなかった。猪木自身は大阪の試合の方がよかったと思っていたようだが、どちらを好むかは人それぞれだろう。

 ただ2本とらなければ王座が移動しないルールを考えれば、後者の方がスリリングだったと言える。

 4年3カ月の間、ドリーはハーリー・レイスに敗れるまで前王者のキニスキーはもちろん、ルー・テーズ、ビル・ロビンソン、ジャック・ブリスコらの挑戦を退け、連日、王者としてのサーキットを繰り返していた。文字通りの強い世界王者だった。

 もう、あれから55年近い時が過ぎていた。弟のテリー・ファンクは昨年、天に召された。ドリーは83歳、もうすでに引退した身だ。リングに上がるのも大変だし、ましてや、電流爆破マッチとなると別物でもある。それでも、ドリーは請われてそのリングに上がった。テリーが大仁田と川崎球場で電流爆破マッチをやったのは1993年5月だ。

「テリーとのスタイルの違いはあるかもしれない。でも、私はプロフェッショナル・レスラーなんだ」

 ドリーのプロレスラーの定義は強くて勝つだけではなく、ファンにも主催者にも贈り物を与えるというものだ。

 だから、どんなリングにも上がるし、誰とでも戦うことができる。ただ、電流爆破の衝撃はドリーの想像以上だった。

【次ページ】 ステージ4のがんと闘う西村修「まだ、死ねない」

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