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31歳で早逝した偉大なセッター・藤井直伸が仲間に遺した情熱「藤井とじゃなかったら、できませんでした」「すごい度胸ですよ(笑)」

posted2023/10/02 11:30

 
31歳で早逝した偉大なセッター・藤井直伸が仲間に遺した情熱「藤井とじゃなかったら、できませんでした」「すごい度胸ですよ(笑)」<Number Web> photograph by AFLO

東レアローズや日本代表でコンビを組んだ“最高の相棒”李博にトスをあげる藤井直伸。今年3月、胃がんで31歳早逝した

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田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

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AFLO

 地道に努力を重ね、日本代表まで上りつめた希代の司令塔は、快進撃を続ける男子バレーの進化の象徴ともいえる存在だった。偉大なセッター・藤井直伸が遺した功績、記憶は多くの人の心に残り続ける。
 現在発売中のNumber1081号掲載の[追悼ノンフィクション]藤井直伸「″努力の天才”が遺した情熱」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】

 JR三島駅から徒歩で約10分。富士山が見える方向へ歩くと、東レアローズの体育館がある。玄関を入ると背番号21、藤井直伸の笑顔の等身大パネルが出迎える。

 今にも「何の取材ですか?」と声が聞こえてきそうで、そこにメモリアルコーナーと書かれていることのほうが嘘のようだ。

「信じられないですよね。ここを通るたび、ふらっと現れそうだし、帰ってくるような気がしているんです」

 GMの小林敦が初めて藤井を見たのは、小林が東レで監督を務めていた2013年。藤井は順天堂大の4年生で、やっとレギュラーをつかんだばかりのセッターだった。身長も高いわけではなく、手が長いわけでもない。Vリーグに入るセッターの多くは、下級生の頃からレギュラーで活躍する選手が多い中、藤井には全国大会での華々しい戦績もない。しかし小林は、当時から藤井に光るものを感じていたという。

「彼のトスワークにはストーリーと『俺はこういうトスを上げてチームを勝利に導くんだ』というフィロソフィーがあった。これはものになるという予感がありました」

ヘタクソだけど、クイックは光るものがあった

 かつての日本バレーでは「最後はエース勝負」と言われるのが常で、セッターに要求されるのは、いかにエースに決めさせられるか。必然的に攻撃パターンもレフトサイドが中心だったのに対し、藤井のトスワークは、ミドル、ライトが中心で常に相手の裏をかく。奇をてらっているようにも見えたが、その背景に揺らがぬ意図があることを小林は見抜いた。

「アタッカーをいい状態で得点させるために、相手のブロッカーが意図せず、いないところにセットする。アタッカーがしっかり打てる状況をつくり出していたんです」

 ただし、不安材料もあった。

「いかんせん技術がない。言葉は悪いかもしれませんが、ヘタクソでした(笑)」

 アタッカーとのコンビ云々の前に、離れた位置からのハイセットも上がらない。加えてエースがいるレフトサイドへのトスは壊滅的だったが、光るものも1つあった。

「最初からクイックをバンバン使えていた。これは絶対武器になるなと思いましたね」

 現在東レの監督を務める篠田歩は、藤井の入団当初はコーチになったばかりの、元ミドルブロッカーだった。本来なら「ビビッて上げられない」クイックを多用する藤井を見て、A、Cクイックだけでなく、Bクイックが使えるようになれば戦力になると考えた。

大谷翔平のボールを至近距離でハードヒットする感覚

 課題の解決方法がわかれば、練習あるのみ。'14年4月に入団後、藤井は練習に明け暮れた。篠田がミドルを、当時コーチの山本太二がセッターを担当し、攻撃への入り方やトスの突き方を全体練習の前後に約1時間ずつ、1つ1つを細かく指導した。その中で最もハマったのが藤井と1学年上のミドルブロッカー、李博とのコンビだった。

【次ページ】 「藤井とじゃなかったら、できませんでした」

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