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《ホンダF1》撤退後も2年連続チャンピオン…前例のない新体制でもサーキットに受け継がれるエンジニアの魂とは
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byMsahiro Owari
posted2023/01/10 17:00
ホンダのエンジニアとして2022年シーズンをともに現場で戦った、TDの本橋(右)とメカニックの吉野
しかし、ホンダはこの第3期で1勝しか挙げられず、2008年限りでの撤退を発表。それは、本橋をはじめホンダの多くのスタッフたちにも寝耳に水だった。
「撤退の知らせを聞いたとき、周りには泣いている者もいました。私はあまりに驚いて、状況をすぐに受け入れることができませんでした」
頭が真っ白になった本橋は、「いまやっている開発だけはとりあえず続けよう」と、次に行う予定になっていたテストの準備に取り掛かろうとしたとき、ある上司からこう言われて我に返った。
「本橋、もう終わったんだよ。お終いなんだよ」
第3期撤退後、量産部門へ異動した本橋は、F1で得た開発手法を量産部門に反映。その能力を買われ、ホンダがF1への復帰を発表した2013年から栃木研究所でPUの研究リーダーとなり、2018年から田辺の下、再び現場でレースを戦うことになった。
田辺の側で何年もレースをしてきた本橋にとって、2022年は初めてTDを務めただけでなく、田辺がいない中でレースを戦う初めてのシーズンだった。
「これまで田辺さんの仕事ぶりを見てきて、いろいろと教わってきたつもりでしたが、実際にやってみると難しかった。特に最終決定を下すときは、いままで経験したことがないようなプレッシャーを感じました。正直、キツいと感じたこともありました」
受け継がれる田辺イズム
その本橋を支えていたのが、レッドブルでチーフメカニックを務めていた吉野誠だった。吉野はホンダがF1を撤退した後もヨーロッパに残り、メカニックという仕事以外にもレッドブルとの窓口を務め、円滑に仕事を進められる下地を作っていた。
その吉野も実は、田辺とともにレースを戦ったひとりだった。
吉野がホンダでレース活動を始めたのは1999年。ホンダ・ワークスチームのテスト時代だった。その後、2001年にB.A.R.ホンダのレースチームに加わり、オリビエ・パニス車、ジャック・ビルヌーブ車を担当し、2004年からバトン車を担当。エンジンエンジニアの田辺、システムエンジニアの本橋とともに、メカニックとしてレースを戦った。