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甲子園直前にボール直撃で大ケガ…あの“フェイスガード球児”が初めて明かす「大手術で変わった価値観」大阪桐蔭エースと涙の再会も
posted2022/12/13 11:02
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
Genki Taguchi
10月20日の夜、聖光学院の伊藤遥喜は、小学時代から知る大阪の友人にメッセージを送った。少しの気づかいはあったのかもしれない。でも、間違いなく本心だった。
「絶対に大丈夫や! また、頑張ろうぜ!!」
「ありがとう。でも、かからなかったのは俺だけやないし。もっとしんどい気持ちの人もいるし、自分なんて大したことないわ」
伊藤の友人である大阪桐蔭のエース、川原嗣貴はこの日、ドラフト会議で指名漏れの憂き目にあった。同校からは松尾汐恩、海老根優大もプロ志望届を出しており、OBも含めれば早稲田大の中川卓也と立教大の山田健太も候補者のリストにあった。そんななか、プロ入りを叶えたのはDeNAから1位指名を受けた松尾のみという、厳しい現実があった。
川原は大阪桐蔭、悩んだ伊藤は…
「嗣貴はプロに行くもんだと思ってたんで。小学校の頃からエグかったっすからね」
伊藤が懐かしむ。中学時代に所属していた北摂シニアでチームメートとなった当初は、ポジションも同じピッチャーでライバル視していたが、実力の差は歴然だった。
「勝負の土俵にすら上がれず(笑)。中学ん時からボールが速かったし、カットボールとかスプリットとか変化球も多彩で。2年生から1個上に交ざって投げてましたからね」
中学時代の川原は、いわゆる“お山の大将”だった。マウンドに立てば気持ちを前面に出して相手に向かっていく逞しさがあり、チームから信頼されていた。ただ、練習はサボりがちで、周囲の大人たちへの態度もやや傲慢なところもあった。川原がそういった側面を見せると、なぜか伊藤が、当時監督の後藤能己から「お前がしっかりしろ!」と叱責され、調和を図ったこともあった。そういった協調性のある人柄が評価され、最終的にキャプテンを務めたほどだった。
その川原が大阪桐蔭への進学が決まりかけていた頃、伊藤も進むべき道を逡巡していた。
本当なら、青森県の八戸学院光星が第一志望だった。11年夏から3季連続で甲子園準優勝の中心選手だった田村龍弘と北條史也に憧れ、甲子園期間中は宿舎まで足を運び握手をしてもらったほどだという。それほど好きだった高校へ進学しなかったのは、監督の後藤から「お前にはもっと合う高校がある」と勧められたからだ。
そこで提案されたのが、聖光学院だった。