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「ビーチフラッグスは野球選手が有利でした」“スポーツマンNo.1の申し子”飯田哲也が明かす名物競技のコツ「ショットガンタッチのポイントは…」
posted2022/09/13 17:01
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Takashi Shimizu
野村監督は「積極的にメディアに出て顔を売れ」
――1995年1月1日放送の「最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦」において初代チャンピオンとなりました。その後の反響はいかがでしたか?
飯田 収録当日は、めちゃくちゃ「やったー!」という喜びはなくて、単に「あぁ、終わった……」という感じだったんです。何しろ朝の9時くらいから始まって、撮影終了が夜中の1時過ぎでしたから(笑)。でも、1月1日、みんながテレビを見ているお正月の時間に放送されたことで、「見てたよ」とか「おめでとう」とか、いっぱい連絡が来ました。知らないおじちゃん、おばちゃんからも「跳び箱の人だよね」って言われるようになったから、その影響力はすごかったです。
――当時、ヤクルトは野村克也監督でした。故障の危険性もある番組でしたが、何かボヤかれたり、あるいは優勝を褒められたりはしなかったのですか?
飯田 野村さんからは何も言われなかったです。お正月はサッチーさんとハワイに行っていて、見ていなかったんじゃないですか?(笑) ただ、当時野村監督は「積極的にメディアに出て顔を売れ」と言っていたから、別に叱られたりはしなかったと思います。
僕としては「強い人が勝てばいい」という思い
――第1回大会は、いわば「古田敦也の代理出場」という立場だったのが、いきなり優勝したことで、翌年正月の第2回大会ではディフェンディングチャンピオンとして最初から注目を浴びることになりましたね。
飯田 まずはTBSサイドの対応が変わりましたね。ギャラが倍以上に跳ね上がって「うわ、スゲェー、ホントにいいんですか?」って思いましたね(笑)。
――番組を通じて、他のスポーツ選手との交流は始まったりしましたか?