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大仁田厚と流血激闘、TVジョッキーでバット折り“空手着のプロレスラー”青柳館長、65歳で逝く…あの「アシャシャシャシャ~」を忘れない 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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photograph byEssei Hara

posted2022/07/09 06:01

大仁田厚と流血激闘、TVジョッキーでバット折り“空手着のプロレスラー”青柳館長、65歳で逝く…あの「アシャシャシャシャ~」を忘れない<Number Web> photograph by Essei Hara

大仁田厚との激闘など、印象的なバトルを繰り広げた青柳政司。プロレスと空手の両輪で活躍した稀有なレスラーだった

 FMWが軌道に乗り始めた頃には、業界最大手の新日本プロレスに参戦。獣神サンダー・ライガーと血の抗争を繰り広げていたかと思えば、いつの間にか新日本の一員に。90年には34歳にして、東京スポーツ制定のプロレス大賞で新人賞を受賞している。単なる格闘技でもなく、スポーツともショービジネスとも言い切れないプロレスの難しいところは、格闘技の実績など、どんなに前歴が凄かろうが、練習段階で高いパフォーマンスを発揮していようが、実際にデビュー戦を終えてみないと、その適性が読み取れないところだ。

 とうに三十路を過ぎていた青柳館長は、若い時分からウエイトトレーニングで鍛え抜かれた頑丈なボディと、見映えのする打撃技をもって、プロレスラー相手にも見応えある試合を成立させてしまう能力があった。そのプロレス適応力は異常なほど高かった。

新日本勢との抗争、平成維震軍

 誠心会館を率いる空手家でありつつ、新日本プロレスの一員でもある……という矛盾を突かれる形で、齋藤彰俊ら弟子たちと新日本勢との抗争が始まる。きっかけは後楽園ホール控室のドア開閉をめぐるトラブル(小林邦昭が誠心会館の弟子を注意して殴打)だった。

 板挟みとなった青柳館長、誠心会館勢や小林、越中詩郎、木村健悟らとの遺恨や抗争、和解を経て、反選手会同盟が結成され、やがては平成維震軍となっていく――。そんな91~93年に繰り広げられた大河ドラマは、まるで「水滸伝」における梁山泊の成り立ちを思わせるモノとなった。

 そんな反選手会や維震軍でも青柳館長は、おなじみの空手着等を自身のルートで調達するだけでなく、明るいムードメーカーとしても活躍。アイデアマンでもあったので、特訓やらマスコミに向けた絵作りなど、「ここまでやるか?」というぐらい協力的であり、プロレスラー以上に柔軟でもあった。リング外でもプロレスへの適性が高かったのである。

 筆者は反選手会同盟が平成維震軍へと改名した千葉・養老渓谷での合宿(93年11月15日)にも同行取材していたのだが、朝もやの中でのランニング(撮影)を行ったり、滝の前に一同が集うとなっても、ちょいと目を離すとベテランのグレート・カブキや後藤達俊がすぐにコースから外れて喫煙していたり、行方不明になってしまう中、青柳館長は愛弟子の齋藤彰俊とともに自ら滝に打たれ、空手着を濡らしつつ、激しい打撃技を披露していたものだ。

「プロレスの敵」として参戦していたはずの誠心会館勢がいつしか、もっとも真面目にプロレスに取り組んでいるという矛盾は一体……。

【次ページ】 「TVジョッキー」で披露したバット折り

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