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山本KID、突然の死。その衝撃と
RIZIN・那須川vs.堀口に続く物語。

posted2018/09/26 11:00

 
山本KID、突然の死。その衝撃とRIZIN・那須川vs.堀口に続く物語。<Number Web> photograph by Susumu Nagao

2012年のVTJで弟子の堀口恭司についていた山本“KID”徳郁。その死は格闘技界を超え、多くの人に悲しみをもたらした。

text by

橋本宗洋

橋本宗洋Norihiro Hashimoto

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photograph by

Susumu Nagao

 9月18日、山本“KID”徳郁が胃がんにより亡くなった。享年41。あまりに早く、衝撃は大きかった。SNSでは、世界中のファイターとファンが早逝を悼み、功績を讃えた。

 週刊誌での報道に先駆ける形でがんであることが発表されたのは8月のことだ。だから我々にとっては突然すぎたのだが、実際には2年以上前から病魔と闘ってきたという。

「それでも、弱い姿は絶対に見せなかった」と語るのはRIZINの実行委員長である榊原信行だ。KIDが選手としてRIZINに出場したことはないが、姉の山本美憂、その息子アーセン、運営するジム・KRAZY BEEの選手がRIZINのリングに上がっている。榊原によれば、KIDは抗がん剤治療も人目を避けるように地方で行なっていたそうだ。

光とともにあったKIDの選手人生。

“神の子”のキャリアは常に光とともにあった。五輪レスラーを父に持ち、レスリングから修斗でプロデビュー。K-1 MAXでジャンルの壁を破る活躍ぶりを見せ、K-1系MMAイベント「HERO'S」でも主役になった。

 2004年の大晦日、K-1ルールで魔裟斗から先制のダウンを奪った試合や宮田和幸戦での“4秒KO”を覚えている人も多いのではないか。敗れはしたが、魔裟斗との試合は中継の最高視聴率を獲得している。前年がボブ・サップvs.曙だから、魔裟斗とKIDの“中量級アスリートによる技の攻防”が注目された意味は大きかった。

 修斗時代、レフェリーが試合をストップした後にも攻撃を続けてライセンス停止処分を食らった時には「とんでもない選手が出てきたな」と悪い意味で思ったものだが、実際にインタビューしてみると、その印象は“大人”だった。

【次ページ】 KID流の“放任”で育った堀口恭司。

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