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オリンピックPRESSBACK NUMBER
“ミスジャッジ”やSNS炎上に追い込まれても中国スノーボード界史上初の快挙…佐藤康弘コーチを悩ませた“NOと言えない中国人”問題
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byYasuhiro Sato
posted2022/03/17 11:03
北京五輪の閉会式でシャオミンとともに記念写真に収まった佐藤氏。中国の関係者に請われての名誉ある参加だった
ビッグエア決勝、佐藤から「I LOVE YOU」の言葉で送り出されたシャオミンは、1本目にフロントサイド、2本目にバックサイドトリプルコークの1800(5回転技)を成功させてトップに立った。最終3本目、大塚健らライバルたちが大技にトライしていくが逆転にはいたらず、シャオミンの最終滑走の前に金メダルが確定した。
その場面が佐藤の心には強く焼きついている。
「もうなんか、そうですねえ……思い出すだけでちょっと泣きそうなんですけど」
金メダルが決まった瞬間、スタート台で準備していたシャオミンが佐藤の方を振り返って言った。
「『ヤッさん、俺、やっちゃったよ』って。その瞬間、僕もああそうだと思って…… 」
「I LOVE YOU. I DID IT」と佐藤の腕の中で子どものように泣き叫ぶシャオミン。
「あそこまで泣き崩れる彼を見たことがなかったし、感無量でしたね」
ジャッジの問題も、ライバルのメダルの価値も、大げさに言えばスノーボードという競技の未来まで引き受けて、2人で勝ち取った金メダルだった。
指導者としての大きな転機
佐藤は自らプロのライダーとして活躍し、2000年代に数々の映像作品を残して日本のスノーボード界を牽引したチーム『ファーストチルドレン』の代表でもあった。それが指導や普及に軸足を移すようになったのは10年ほど前から。
何年もかけて自ら人体実験と呼ぶほどエアバッグでトリックを繰り返し、その肉体で分析し尽くした技術的知見。それが鬼塚や大塚、岩渕らを育成していく過程で「ある一線を越えたところで、論理的に全てを繋げられるようになった」と、系統だった理論としてまとまったという。
さらに大きな転機となったのは2015年、当時16歳だった鬼塚の世界選手権での優勝(スロープスタイル種目)だった。
「すごくニュースになってテレビでも取り上げられて、タクシーに乗ったら運転手さんまでスノーボードの話をしていたんです。その時に決めましたね。ああ、これは自分自身がどれだけのパフォーマンスをしても、及ぼす影響はたかが知れているなと」
指導対象は佐藤が経営する練習施設に訪れるスノーボーダーたちだった。代表選手になるような才能のある子どもたちだけでなく、教えてもなかなかできない子どもや一般のお客さん、そして外国人の選手までさまざま。同じことを伝えるための方法論も、人によって千差万別。同じ言葉では伝わらない。その経験からティーチングやモチベーターとしての引き出しの数を増やしていった。