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ギリギリの膝で五輪を戦い抜いた清水邦広…“同学年の戦友”福澤達哉が「(五輪出場は)オレじゃなくて清水でよかった」と伝えた理由〈バレー〉
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byNoriko Yonemushi
posted2021/08/16 11:03
14日に行われた福澤達哉の引退試合で笑顔を浮かべる清水邦広。日本男子バレーの一時代を支えた2人の友情は厚い
「歩くだけでも痛かったので、めちゃくちゃ不安はありました。オリンピックでトップのパフォーマンスを出せるのかって……」
それでも隔離期間後の懸命な治療で改善し、なんとか五輪の舞台に立つことができた。
北京世代にとって待ち焦がれた“1勝”
迎えた7月24日の初戦・ベネズエラ戦。第3セット終盤、二枚替えで出場した清水は、セッター藤井直伸からのトスを、ブロックアウトで得点につなげ、日本の20点目を挙げた。膝は万全には程遠い。以前に比べればジャンプ力は落ちた。それでも、その分磨いてきた技で勝ち取った1点。清水にとっては、2008年北京五輪以来、13年ぶりの五輪での得点だ。
そしてその日、日本はセットカウント3-0で勝利した。日本男子バレーの五輪での勝利は1992年バルセロナ五輪以来29年ぶりだった。清水はこう振り返る。
「北京で1勝もできなかった、北京世代の思いがありましたので、あの1勝は、ものすごく大きな1勝でした。若い他の選手にとってはそんなことは関係なく、まず予選を突破するための1勝だったと思いますけど、僕にとってはものすごく重みがあった。一つの呪縛から解き放たれたな、という感覚でした」
福澤「止まっていた時を動かしてくれた」
清水とともに大学4年で北京五輪に出場した福澤達哉は、ベネズエラ戦で清水がライトから決めた1点を、あの1勝を、特別な思いで見つめていた。
「僕たちは北京のあの時からずっと時が止まっていたので、それを動かしてくれたことがすごくうれしかったですし、その場所に清水がいて、コートに立って、しっかり自分の仕事をしてくれた、その姿を見られたのが本当に僕はうれしかった。今回の東京五輪では男子バレー躍進のいろんなシーンがありましたけど、僕の中のベストプレーは、清水のあの泥臭い1点。一番印象的な、自分の思いを重ねたプレーでした」
15歳で出会った同学年の2人は、学生時代はライバルとして高めあった。北京五輪出場後は、代表だけでなくパナソニックパンサーズでもチームメイトとなり、かけがえのない戦友となった。