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「我が巨人軍は永久に不滅です!」「ナガシマァ~」涙、涙、涙…日本人にとって38歳長嶋茂雄の引退はどんな衝撃だったか?
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2021/06/24 17:03
引退セレモニーのあと泣きながら引き揚げる長嶋茂雄
「不運にも我が巨人軍は、V10を目指し、監督以下選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし戦いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は破れ去りました。私は……今日、引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です!」
挨拶前後、後楽園球場は地鳴りのような大歓声に包まれ、ところどころ嗚咽のような「ナガシマァ~」というファンの絶叫が聞こえてくる。『泣き虫』(金子達仁著、幻冬舎文庫)によると、元プロレスラーの高田延彦はオール横浜に選抜されるほど熱心な野球少年だったが、背番号3の引退でぽっかりと心に穴が空き、これ以降テレビの野球中継を見なくなってしまった。ザ・クロマニヨンズのギタリスト真島昌利は、「僕の中では長嶋選手は熱狂であり、興奮であり、感動だった。もう長嶋茂雄って人が僕にとってはプロ野球だった」と、澄んだ目で語っていた。高田も真島も同じ1962年生まれだ。彼らに物心がついたとき、巨人はV9真っ只中だった。少年たちにとって、「4番サード長嶋」こそ世界の真ん中だったのだ。
「長嶋の存在は青春そのもの」
この日、ベテラン記者や解説席の元ライバル村山実は人目もはばからず泣いた。みんな自分のことのように泣いていた。なぜなら、それはひとりの選手のキャリアの終わりではなく、自分が熱狂した日々、己が生きたひとつの時代が終わるということを意味していたからだ。日本中で何千万人という人間がテレビの前で、打てば「やったぞ」と喜び、三振すれば「ちきしょう」なんて悔しさを共有した。それぞれのミスタープロ野球と過ごした日々。日本テレビの赤木孝男アナウンサーは噛みしめるようにこう実況した。
「長嶋の存在は、多くの人々にとっては青春そのものであり、また希望でもありました。人々はその時々の長嶋に己を映してきました。今日はその決別のときでもあります」
74年10月14日、長嶋茂雄の引退試合は、まさしく“国民的行事”だった。そういう規模の引退試合はそれまでなかったし、それ以降もない。
なお、シーズン終了後のニューヨークメッツとの親善試合で背番号3はコーチャーズボックスに入り、代打で打席に立ち、三塁守備にも就いた。その出番が告げられた後楽園球場のあまりの盛り上がりに、観戦していた大リーガーの夫人部隊もいっせいに立ち上がり、「ナガシマ、ナガシマ」と大きな拍手を送ったという。戦後日本最大のエンターテイナーは第2打席に左中間へタイムリーを放ち、「でも何回も出場すると、あのときの感動が薄れてしまうから正直いって、かんべんしてほしいんだけどなあ」なんて言いつつ、最終戦の静岡草薙球場には「4番サード」でスタメンのファンサービスも。
最後は笑顔で、背番号3さよなら公演のアンコールを飾ってみせたのである。
(【前編を読む】「いまが引き際だぞ」「お金もいりません。もう1年やらせてください」“ミスター”長嶋茂雄37歳が頭を下げた夜 へ)