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「山はお金がかからない」“サバイバル登山家”になって22年…なぜ服部文祥は廃村暮らし(電気なし、ガスなし、水道なし)を選んだか
text by
稲泉連Ren Inaizumi
photograph byNanae Suzuki
posted2021/04/10 17:01
服部文祥さんと愛犬ナツ
昼飯を作っているうちに日が暮れ始め、薪で火を熾して五右衛門風呂に入ったら辺りは真っ暗になっている。翌日も肉の解体をやっていると一日かかるので、でかい獲物を一頭しとめたら2日は仕事があるわけだ。だから、なかなか願望通りにはいかないね。
ちなみに、解体した肉はいろんな形で保存している。2階にぶら下げて薪ストーブの煙でいぶしているのは、腿をカラカラに干したもの。鋸で輪切りにして塩と生姜と酒で煮込むだけでものすごく美味いんだ。あとは塩を振って干しているものと、腐る前に食べる予定の生肉がある。裏に干してあるのは犬用。
なんというか、サバイバル登山をしている時と比べれば、ここでの生活は退屈だよ。極限的な状態でアドレナリンがびゅっと出るような瞬間は、全くと言っていいほどないわけだから。
一方で退屈なのに忙しい、っていうのかな。風が吹けば煤が落ちるし、晴れの日が続くうちに薪や竈に使う小枝も集める必要もある。退屈さと忙しさとバカらしさ、面白さや楽しさが混じりあっていて、ときどき「いったい俺は何をしているんだろう」と空しくなることさえある。犬は寝ているだけだしね。それでも進んでいるような、進んでいないような日々の中にいると、「これでいいんだ」という気持ちが湧いてくる瞬間があってさ。人の一日っていうのは本来そういうものなんじゃないかな、って。
本来、生きることに金はかからない
――これまでは狩猟も「サバイバル登山」の一環として行っていました。「小蕗」での日々について服部さんは「登山」よりも「生活」に目を向けるものだと語っていますが、それはどのような意味なのでしょうか。
服部 結局は「面白いからやっている」ということなんだけれど、敢えてテーマを言うとすれば「脱経済成長」かな。最近『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著)を読んだんだけれど、この世界にはもう、経済成長をするスペースはほとんど残されていなくて、環境を守らないと人類どころか地球全体がやばい、という考え方にはとても共感した。俺も同じ考えだから。
結局、「経済成長をやめる」と言うと世界が混乱するから、成長できるふりをしながら軟着陸をさせようとしているのが、今の世の中だという認識が自分の中にはあってさ。まあ、それを冒険家の関野吉晴さんに話したら、「それは楽観論で、本気で経済成長を続けようと思っているんだよ」と言われて、確かに関野さんの言うことが正しいんだろうな、とも思っているけれど。
それで、普通に都市の中で暮らしていると、人は「やばい、やばい」と理屈では思いながら、「でも、自分は仕方ない」と思うものだよね。俺自身、横浜に住んでいるのだから、そうなわけだ。ただ、そのことにいつも居心地の悪さを感じていて、「自分くらいはちょっと試しにそういう生活やってみるかな」という気持ちがあった。それで横浜の家でもにわとりを飼って、犬や猫がきて、犬を猟に連れて行くようになったんだけれど、そういう出会いの中でこの場所で「生活」に目を向けるということに行きついたと思っている。
じゃあ、俺の求めている「生活」とは何か。