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「雪崩で行方不明の可能性も」冬のアラスカで”遭難”して…ある世界的登山家が「引退」を決断した瞬間
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byMasatoshi Kuriaki
posted2021/01/30 17:04
2001年のフォレイカー(5304m)で栗秋が撮影した写真。最終キャンプの雪洞内から見たデナリ
栗秋 3人でした。最初、3人でキャンプ2の上空まできて、これから近くの氷河上に着陸して、そこで1人が降りてバスケットを機体に吊るす作業をすると。そのあと、今度は2人で救助に来ると言っていました。その言葉通り、15分後くらいに、また来てくれました。30mくらいのロープの下に、1m四方の、いや、もうちょっと大きいかな、金属製のバスケットが吊るされていました。柵の高さは40㎝くらいでしょうか。デナリ国立公園の救助ヘリコプターは底の部分が透明になっていて、下の様子が見えるようになっているんです。なので、雪洞の前を平らにならしていたのですが、そこにドンピシャでバスケットが降りてきました。そこに乗り込み、命綱をバスケットに取り付けて、OKの合図を送ったら、ふわふわと上昇していき、あっという間に氷河の上まで連れて行ってくれました。
――そこで機内に乗り込むわけですね。機内に乗っているときは、どんな気持ちでしたか。
栗秋 意外だったのは、ハンターの景色がぜんぜん違って見えたことでした。いつもの恋焦がれていたハンターではなくなっていた。これまでは、入山前なら、よっしゃ行くぞ、と。いい意味の興奮がありました。登頂できずに引き返してきたときも、トレース(ルートの跡)を見ながら、今年はあそこまでだったか、また帰ってくるぞ、みたいな感覚になっていました。でも、そのときは、山から剥がされてしまったような感覚にずっと囚われていました。やらかしちゃったという思いもある。100kg以上の装備を置いてきてしまったといううしろめたさもある。救助隊に余計なリスクを負わせてしまったという申し訳なさもある。あと、キャンプ3に留まっていたら、どうなっていたのかなというのはずっと考えていましたね。
――キャンプ2のひとつ上、キャンプ3(3100m)にはもっと豊富な食料と燃料があったわけですか。
栗秋 食料10日分、燃料16日分くらいありました。ただ、キャンプ3のあたりは雪崩が頻繁に起きる。あと、雪洞の天井がものすごく薄くなっていたんです。最初は1mくらいの厚さがあったのですが、すごい風が吹いていたのでどんどん削られていって、光が透けて見えるくらいになっていた。次、強い風が吹いたら、屋根がなくなってしまうなと思って、それもあってとにかく早く降りようと思ったんです。
――キャンプ3での停滞を選んでいたら、自力で下山できたかもしれない?
栗秋 結果論ですけど、キャンプ3なら、天気が回復するまで待てたかもしれない。天井がなくなったら、時間はかかりますけどまた雪洞を掘ればいい。ただ、雪崩が激しかったので、天候が回復してからでも、セオリーとしては2日くらいは待たなければならなかったでしょうね。それでも雪崩に巻き込まれていたような気がします。
――ちなみに救助の費用はかかるのですか。
栗秋 かかりません。国立公園内での救助は基本、かからないんです。それは事前に知っていました。レンジャーの方々もよく知っている人たちばかりで、春、夏と、本格的な登山シーズンを迎える前にウォーミングアップができてよかったよ、くらいの反応でした。ただ、当然、申し訳ないと思っていました。
――これまで、アラスカ三山の冬季単独登頂を目指すという、限りなく「無謀」なトライをし続けていて、こういうことがなかった方が不思議なくらいでしたからね。
栗秋 毎回、下山報告に行くたびに、レスキュー隊の人とかは驚いていました。2、3カ月、アラスカの冬山に入って、まるで普通の旅行者みたいな様子で帰ってくる、って。「マサ(栗秋正寿)は、ほんとに入山してたのか?」って。
(【続きを読む】「登山家が瞬間冷凍で亡くなっています」“自殺的行為”なのに…なぜ栗秋正寿は冬のアラスカ登山に挑み続けた? へ)
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