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【追憶】パンチョ伊東の秘密…ドラフト司会25年間で呼び上げた1991人、最後の年はイチローを
text by
吉川達郎Tatsuro Kikkawa
photograph byKazuhito Yamada
posted2020/10/26 11:01
25年間、ドラフトで選手の名前を呼び上げたパンチョ伊東氏
「第4回選択希望選手、オリックス……」
年内限りでパ・リーグ退局が決まっていた伊東さんにとって、ドラフトの司会役はその年が最後。期するものがあったのか、初めて練習風景を公開してくれたわけだ。思いも寄らぬネタの提供に、筆者も感激して翌日のサンケイスポーツ紙上で『最後の発声練習』という見出しで記事を書かせてもらった。そして、いよいよドラフト会議本番。ラストを飾るに相応しいドラマが待っていたのだ。
「第4回選択希望選手、オリックス、鈴木一朗。投手、18歳。愛工大名電高校」
オリックスの4位指名で読み上げられたのは、今をときめくイチローだった。テレビ中継もとっくに終わった全体の41番目。中央球界では無名の存在だった18歳の投手に、注目する関係者は皆無であった。実際にイチローの名前をアナウンスした伊東さん本人も、このときはまだ将来の活躍を予見できるはずもない。だが、これこそが神のみぞ知るドラマ。オリックス入りしたイチローは3年目の1994年に210安打を放って大ブレークすると、以後スター街道を驀進し、2001年、ついにポスティングシステム(入札制度)を利用して海を渡り、日本人野手初のメジャーリーガーとなった。
衛星放送で見守り続けた海を渡ったイチローの活躍
開幕間もない4月。マリナーズの本拠地、シアトルのセーフコフィールドを訪れた伊東さんは、日本から持参していた鰻の蒲焼きを手土産にイチローと再会を果たした。開幕戦からヒットを量産するなど最高の形でメジャーデビューイヤーのスタートを切ったイチローは、「ドラフトでパンチョさんに名前を呼ばれてプロ入りした選手の一人として、恥ずかしい成績は残せないので、期待していてください」と、伊東さんに誓ったのだという。
だが、このときすでに伊東さんの身体は病魔に蝕まれていた。帰国後の5月、背中や肩に激痛を覚えて東京・信濃町の慶応病院に入院。精密検査の結果、癌細胞が全身に巡っていることがわかった。家族と、一部の親しい関係者のみが出入りできる面会謝絶の赤い札がかかった個室病棟で、伊東さんはイチローのヒット量産を衛星放送で見守り続けた。その年、驚異の242安打を放ち、首位打者、新人王、MVPに輝いたイチローの活躍が、抗ガン剤治療などに苦しむ伊東さんにとってどれだけ大きな励ましになったかわからない。