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「伝説のビール売り子」おのののかと結婚 28歳“モヒカン”塩浦慎理ってどんなスイマー?
text by
田坂友暁Tomoaki Tasaka
photograph byJMPA
posted2020/09/18 11:00
9月9日、タレントのおのののかと結婚したことを発表した塩浦慎理
2012年と言えば、まだ東日本大震災の爪痕が残っている時期。水泳界でも、被災者はもちろん、被災した多くのスイマーを助けるべく、日本各地でチャリティー大会が開催されていた。
そのひとつが前年、神奈川県で第1回が開かれた「チャリティースイム・イン・さがみはら」だ。この大会は、日本選手権の翌週の日曜日に行われている。2012年も同じように、日本選手権が終了した翌週、4月15日に相模原グリーンプールで開催された。
その会場に、塩浦の姿があった。ケガの影響があったとはいえ、目指していた五輪の出場権を逃し、気持ちもまだ落ち着かない時期に、彼はこの大会に中央大学の仲間たちと一緒に出場していたのである。
当時、私がインタビューした記録がある。塩浦はこう話していた。
「自分としてはまだ悔しい思いはありますし、まだ次に向けて頑張ろうなんて簡単には言えないんですけど。でも、五輪に出られなくても、僕にできることがあるのはうれしいな、と思って。僕の泳ぎを見て、頑張ろうと思ってくれるとか、僕がこういうところで泳ぐことが誰かの力になる、というのであれば、喜んで泳ぎたいな、と思って参加しました」
家でひとり、ふさぎ込むよりも、仲間とともに楽しく好きな水泳をやっているほうが、もしかしたら気が紛れたのかも知れない。それほど崇高な理念を持って行動していたのではないかもしれない。しかし、弱冠20歳の若者が、疲れていようが、痛みがあろうが、悔しい思いがあろうが、誰かの力になるなら泳ぐ、という。その言葉を発することができる彼に感銘を受けたのを覚えている。
2度の入院生活
今や自由形の第一人者となった塩浦だが、一時期はトンネルのなかにいた。同じ自由形短距離のライバル、中村克(イトマン東進)にどうしても勝てない日々が続いたのである。50mには絶対の自信を持っていたが、日本記録すら中村に奪われてしまう。
そんななか、塩浦の転機となったのは2度の入院生活だった。2018年のアジア競技大会(インドネシア・ジャカルタ)終了後、扁桃周囲膿瘍で入院。退院するも再発し、咽頭浮腫も併発して再度入院。2カ月以上もの間、泳ぐことすら叶わなかった。
当時、新天地をヨーロッパ各国に求めた塩浦は、多くの海外トップスプリンターたちとともに生活したり練習していくなかで、パワーを追い求めていった。筋力アップに、体重のアップ。気づけば、高校時代から比べて10kg近く増えていた。
それが、2度の入院生活で一気に減少。高校時代に近い体重まで落ちてしまったのである。『パワーがなければ短距離は世界と戦えない』。そう思っていた塩浦は、2020年に差し迫る五輪に不安を抱えていた。
突き詰めていく“マニアの世界”
だが、ふたを開けてみると、身体が軽い。スムーズに腕も回り、ボディポジションも高く、抵抗の少ない姿勢で泳ぐことができた。