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生前のクライフの“理論派監督”批判。
では、真に「美しいサッカー」とは? 

text by

永井洋一

永井洋一Yoichi Nagai

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photograph byANP/AFLO

posted2020/06/28 19:45

生前のクライフの“理論派監督”批判。では、真に「美しいサッカー」とは?<Number Web> photograph by ANP/AFLO

“フライング・ダッチマン”ヨハン・クライフは、優れた選手であるだけでなく、まさに革命家だった。

グアルディオラを見出した時の逸話。

 今でこそカンテラ育ちを重視し、そこから輩出されるタレントがチームを支えることで知られるバルサでも、クライフの監督就任当初('88年)は、育成システムこそ整ってはいたものの、選手を見る視点は自分の理想とは少し違っていたと振り返る。

「それを改革するのも、監督としての私の責任の範疇でした。例えばグアルディオラは17~18歳の頃、三軍のゲームに出ていました。フィジカルが弱かったからです。しかし私は1年後、彼を一軍に昇格させました。フィジカルの問題よりもテクニックを重視したからです」

 周囲の反対を押し切ってクライフが一軍に昇格させたグアルディオラがその後、選手として、監督として、どのような実績を挙げたかは今さら紹介する必要もないだろう。抜群のテクニックとセンスを持ち合わせながら、小柄でひ弱だった若きグアルディオラを見たクライフは、そこにアヤックス時代の若き自分の姿を重ね合わせたのだ。

「理論派」監督の台頭と、ファンハールヘの怒り。

 クライフ擁するオランダ代表が'74年W杯でセンセーションを巻き起こして以来、オランダが生む「戦術理論」は世界の注目の的となる。そして日本代表を率いたオフトをはじめ、アドフォカート、ヒディンク、ファンハール、ベーンハッカーらオランダ人監督の手腕が注目され始める。ところがクライフは、それら「理論家」の台頭を快く思っていなかったようだ。

「今は、たくさんの本が出てサッカーの理論が花盛りです。そのために、理論先行で経験がないがしろにされています。私は最も重視すべきは実践だと思っています。

 監督としての私を支えていたもので最も重要だったのは、選手としての経験でした。私も選手でしたから選手のことがわかるし、また、選手として私だけが到達できた世界があったことが私なりの指導を形作り、他の指導者との大きな違いになっています」

 クライフは特に「理論派」監督の最右翼、ファンハールに対しては辛辣だった。

 ファンハールは'91年からアヤックスを率いてエールディビジ3連覇を果たす中、'94-'95年シーズンにはCLで欧州の頂点に立ち、さらには'97年にバルサの指揮官に就任すると、いきなりリーガと国王杯の二冠を達成。当時、指導者としてまさに飛ぶ鳥をも落とす勢いにあった。

【次ページ】 ファンハールは「指導者としては失格」。

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