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内田樹が語る「兵法の危機対応術」。
スポーツとの差、パンデミック対策。

posted2020/05/16 11:40

 
内田樹が語る「兵法の危機対応術」。スポーツとの差、パンデミック対策。<Number Web> photograph by Getty Images

武道、兵法の目的は「勝つ」よりも「生きる」に近い。その知恵は勝敗の世界で生きる人間にこそ有意義なものになるだろう。

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内田樹

内田樹Tatsuru Uchida

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Getty Images

 スポーツと武道は危機対応術としてどう違うのかについてというお題を頂いた。武道家の立場から、両者の違いについて一言書きたいと思う。ただ、以下は私の個人的な知見であって、武道家の一般的見解ではない。

 というのは、現代日本で「武道」と呼ばれているものは広義のスポーツに含まれているからである。そうである限り、「スポーツと武道の違い」というのは「果物とリンゴの違い」と同じく、対比的には論ずることができない。この二つを対比的に論じるためには「武道はスポーツではない」というところから話を始めないといけない。そのための迂回をご容赦頂きたい。

 敗戦後の1945年、GHQは「超国家主義および軍国主義の鼓吹に利用され、軍事訓練の一部として重んぜられた」との理由により、学校体育での剣道を禁止した。翌'46年にはひろく社会体育における「武道」という名称の使用そのものが禁じられた。

 そのとき、剣道家たちは、苦肉の策として、剣道をフェンシングに似せてスポーツ化した「しない競技」というものを発明した。「過去の剣道の弊害を除去し、本格的なスポーツとして、競技規則、審判規則をつくり、民主的な運営を図」った新しい競技である。

「しない競技」は1960年代なかば、私が中学生だった時点ではまだ学習指導要領に記載されていた。私は剣道部員だったので、教科書に載っている「しない競技」というどこにも存在しないスポーツのルールや技法を試験のために暗記しなければならないことをひどく不条理だと思った。

「しない競技」が体育の教科書からいつ消えたのか私は知らない。たぶん誰も気がつかないうちにこっそりと抹消されたのだろう。そして、この「こっそり」という副詞が今日における武道概念の曖昧さの起源になった。

武道とスポーツの境界は公的には消滅した。

 剣道を学校体育に戻すに際して、文部省は「しない競技」はGHQの眼をくらますための一時の方便であったことを認め、剣道や柔道はスポーツではないと宣言し、加えてアメリカの文化的伝統に対する誤解と禁圧措置にはっきり抗議すべきだったと思う。

 しかし、日本政府はそれをしなかった。そして、武道とスポーツの境界は曖昧にされたまま半世紀が過ぎ、10年ほど前の武道必修化に際して、文科省は、武道は「我が国固有の文化であり、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です」と宣言してしまった。

 武道は「わが国固有の運動」ということになり、武道とスポーツの境界は公的に消滅した。だから、「武道とスポーツの違い」を対比的に論じるためには日本政府の定めた「武道」規定を否定するところから話を始めないといけないのである。ややこしい話である。

 前置きは以上。

【次ページ】 兵法は「勝負強弱」を論じない。

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