“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
西川潤、桐光10番を背負った3年間。
「新たな答えを出していきたい」
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2019/12/04 08:00
1年生から桐光学園の10番を背負ってきた西川潤(中央)。選手権出場への道は断たれたが、Jリーグの舞台でさらなる飛躍を誓う。
覚悟を決めて選んだ進学。
横浜F・マリノスジュニアユースでも10番を背負っていた西川がユース昇格を断って3つ上の兄がいた桐光学園に進学したのは、もはや多くのところで語られている。
「『なぜユースに上がらないんだ』という厳しい声もありました。でも、これは自分の人生なんで、周りに何と言われようが、批判やいろんな意見はあると思いますが、自分のための決断をしました。失敗したら『それ見たことか』と言われると思うので、それが逆にバイタリティーになっているというか、『なにくそ』と思えてやれている。そこはモチベーションになっています」
覚悟はできていた。自分の背中にのし掛かるプレッシャーは望んでいたものでもあった。だからこそ、鈴木監督が自分に10番を与えてくれたことに喜びと責任を感じることができた。
「ここに来るまで、メンタル面において自分は相当、甘かった。技術云々よりも、その技術を発揮するためには、どんなときも自分を表現できる、さらけ出せる力が必要だった。なりふり構わずゴールを目指す、苦しいときにこそ力を発揮する。恥や外聞は関係なく、かっこ悪くても良いから泥臭くやって結果を出す。これが大事だと思えるようになったことが、桐光学園にきて、1番の成長だと思います」
だが、高校最後の大舞台に、チームを連れて行くことができなかった。悔しくて、情けなかった。
アジアMVPも、選手権では初戦敗退。
話は試合後のミックスゾーンに戻る。
「試合の中で正直、焦りはありました。0−1にされて、刻々と時間が過ぎていった。『このまま終わってしまうのか』と自分の中で焦りもありましたし、チームのみんなも焦っていたと思う。それをいかに冷静に保たせることができるかというのもキャプテンの仕事だったのですが、そういう力だったり、自分の想いが全然足りなかったと思います。自分も焦ってしまった」
どの質問に対しても、自分の不甲斐なさを口にしていた。だが、高校3年間を振り返ると、常にこの思いを噛み締め、その度に成長して結果を出していく彼の姿を見てきた。
1年のときは全国大会と縁がなかったが、2年生ではインターハイと選手権に出場。AFC U-16選手権でも日本代表の10番を背負い、優勝に導く決勝ゴールを決め、アジアMVPにも輝いた。
だが、インターハイでは決勝戦で山梨学院高校に敗れ、「こういう試合で勝ちに持っていくことが10番の仕事。それができないのは自分がまだまだ足りないことが多すぎるということ」と涙を流すと、アジアMVPという大きな看板を背負って出場した選手権では、初戦で大津高校に0−5の大敗を喫した。