Number ExBACK NUMBER
Mr.高速スライダー伊藤智仁が語る、
1993年6月9日、伝説の巨人戦の真実。
text by
松本宣昭Yoshiaki Matsumoto
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2019/03/31 10:00
9回2死まで無失点、16奪三振の快投を続けた伊藤智仁。巨人・篠塚和典にサヨナラ本塁打を打たれ「負け試合における最多奪三振」として記憶に残る敗戦投手となった。
サヨナラHRを浴びた本当の要因。
篠塚が放ったサヨナラホームランの場面には、さまざまな逸話が残っている。
伊藤が初球を投じる前に、篠塚はあえて2度、打席を外している。この駆け引きによって、リズムが狂ってしまった説。奪三振記録を意識するあまり、力んでしまった説など。
しかし、伊藤本人が語る失投の要因は、いたってシンプルだ。
「篠塚さんは途中出場で9番に入っていた。良い形でクリーンアップに回したくなかったので、フォアボールだけはダメだと思っていました。篠塚さんに長打はないと決めてかかり、ヒットならオーケーと安易に投げちゃったんですよ。球場の狭さや、こういうときのベテランの心理を考えていなかった。ぼくが単に経験不足だったというだけです」
奪三振記録は知らなかった?
奪三振記録がかかっていることについては、伊藤も、野村克也監督も知らなかったのだそうだ。知っていたのは、古田敦也捕手だけだった。
「三振のリーグ新記録がかかっとるのなら、最初から振ってくるに決まっとるやろ」
試合後のベンチでは野村監督から古田への30分近くに及ぶ“お説教”が始まった。その光景を、伊藤は気まずそうに見ていた。
「古田さんは悪くない。責任は適当に投げちゃった俺やのに……」
配球に間違いはない。打たれたのは、自分の投球ミス。25年が経過してもそう言いきれるほど、ルーキー伊藤にとっての古田は、頼れる“兄さん女房”だった。
「僕はそこまで球種が多いタイプのピッチャーじゃないので、次の球種をバッターに絞らせないために、キャッチャーからボールをもらったらすぐ投げる。古田さんの頭の中では、ここでストライクが入れば、次はこれ、その次はこれという組み立ての枝分けができている。だから、サインがすぐに出てくる。僕の早いテンポのピッチングは、古田さんとだからできる間(ま)なんです」