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厳寒ウランバートルで相撲文化を問う。
日本は育成制度でモンゴルに劣る!?
text by
森哲志Tetsushi Mori
photograph byTetsushi Mori
posted2018/03/08 16:30
民主化運動の原点の地、スフバートル広場。1992年の新憲法発布が、モンゴル人力士が来日するキッカケとなった。
そもそもモンゴル人は日本が嫌いだった。
モンゴル側から大相撲を見ると、その人気の第一期は「草創期」とも言える旭鷲山時代(1992年~2000年)。第二期が「発展期」となる朝青龍時代(2001年~2006年)、第三期が「円熟期」の白鵬時代(2007年~現在)に分けられる。
経済的側面だけでなく、旭鷲山は思わぬ所でモンゴル国民を覚醒させてもいた。
「社会主義時代のモンゴルは日本に恐るべき認識を持っていた。曰く、日本は科学技術ばかり発達して、緑や湖がない。そのため人間が吸える空気がなく、空気はガソリンスタンドで買っている」(松田忠徳著『朝青龍はなぜ負けないのか』から抜粋)と学校で教えていたという。恐るべし共産主義である。
当然、国民は日本嫌いが大多数。
ところが、そんな日本が国技でモンゴル人に小結の称号を与えたから、まさかとなり、「日本は凄い。日本人の心はモンゴルの青い空と緑の草原のように広い」と親日家へ向かって雪崩現象を巻き起こしたという(この部分も同著より)。
旭鷲山は、まさに日本文化を喧伝するパイオニアでもあったのだ。
朝青龍は「輝けるビジネス戦士」だった。
場所中の夕方は人通りが絶えるほどモンゴル中を熱狂させた旭鷲山の活躍にいたく刺激されたのが、元遊牧民の父親の四男坊、ドルゴルスレン・ダグワドルジ(朝青龍、現在37歳)である。
父も兄もレスリングの五輪代表という格闘技一家。最初から旭鷲山を上回る自信はあった。敵はただひとつ。日本での畳の生活と食べ物、言葉、慣習など日常の諸々だけだった。旭鷲山と共に入門した6人も、そこで躓いて3人が脱落していた。
周到な準備の末に、まずは生活面のハンディを克服すべく、高知県の私立高校に留学してプロを目指すことになった。「頭が良くて努力家」と周囲の評価も非常に高かったという朝青龍の戦略はずばり当たり、その後、その高校の後輩にも受け継がれてゆく。
角界入りしてわずか3年で小結に(2001年)。その翌年には、関脇から大関に昇進。同11月の九州場所では初優勝。大型のハワイ出身力士・武蔵丸をなぎ倒し、2003年1月には横綱となって頂点を極める。
モンゴルの人々は、そんな“蒼い旋風”に何を見たのだろうか。
「それはやはり日本人の姿を重ね合わせて、『素晴らしい』と感じたのではないでしょうか」とくだんの新聞社元幹部。
単なる経済発展より、さらにランクアップした国際社会に通じる輝かしい“ビジネス戦士”に映ったというのである。
「日本人だって長らく『エコノミック・アニマル』と揶揄されながら、じっと我慢して世界の経済を動かすほどの大国になったではありませんか」
日本人と日本経済は我々モンゴル人の見本であり、朝青龍はその忠実な実践者なのだ……両者を重ね合わせながら、憧憬として見上げていた部分があるのではないか、という。