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厳寒ウランバートルで相撲文化を問う。
日本は育成制度でモンゴルに劣る!? 

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森哲志

森哲志Tetsushi Mori

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posted2018/03/08 16:30

厳寒ウランバートルで相撲文化を問う。日本は育成制度でモンゴルに劣る!?<Number Web> photograph by Tetsushi Mori

民主化運動の原点の地、スフバートル広場。1992年の新憲法発布が、モンゴル人力士が来日するキッカケとなった。

1992年に新憲法ができ、旭鷲山が来日した。

 モンゴル出身の若者が初めて日本の土俵を踏んだのは1992年2月。ダバー・バトバヤル(旭鷲山、現在は44歳)ら6人が大島部屋に入門したのが始まりだった。

 この年は、モンゴルという国の歴史において革命的な位置づけとなっている。

 1924年以来の社会主義を放棄して共産圏から脱し、複数政党による大統領制を基本とする新時代へ向けた憲法改正を行い、経済を自由化した年だからだ。海外渡航はこれら一連の開放政策によって初めて可能になった。

 憧れの国ニッポンでブフ(モンゴル相撲)出身のモンゴル人の若者がどれだけやれるのか――人々は日本という国と大相撲に素朴な夢を描いたのだ。

 どちらの相撲が強いのだろう? チンギス・ハーンの血を継いだ遊牧の民が農耕民族に負けるわけはない――興味と関心の焦点は、純粋にスポーツ的側面にあった。

 そんな国民の期待を背に、旭鷲山は順調に出世を果たす。3年後、十両優勝を果たして入幕。1997年には前頭三枚目にまで駆け上がり、金星を上げるなど大活躍したのである。

 一躍、祖国のヒーローにのし上がったが、人々が目を見張ったのは、三役でもないのに豹変した旭鷲山の暮らし向きだった。

旭鷲山が象徴した高度経済成長。

 関取になった途端、当時は贅沢品の象徴でもあった携帯電話を手にしていた。前頭三枚目になると、ウランバートル市内に土俵付きの豪華な一戸建てを新築。国営の食品店の店主だった母も、国からその店舗の経営権を買い取り、従業員50人を抱えるスーパーマーケットの社長に納まった。

 国有財産の自由化に合わせて市場経済化が徹底的に推進されるモンゴル経済にあって、日本が“国技”と謳う伝統競技は、モンゴル国民にとって、わかりやすい「夢の経済指標」のように映ったのだ。

 結果、旭鷲山は15年間の現役を終えた頃には、地上15階建て高層ビル「KYOKUSHU TOWER」のオーナーとなった。いちスポーツ選手から、貿易から自動車販売まで手広く手がける実業家に転身していたのである。

 2008年には国会議員選挙にも出馬。公約の1つは「数万人の労働者を日本に派遣、生活力アップを目指す」。自らの成功体験を訴えて、楽々当選だった。

【次ページ】 そもそもモンゴル人は日本が嫌いだった。

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