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育成新人が異例の一軍キャンプに。
ロッテ菅原祥太、大学中退後の反撃。
text by
永田遼太郎Ryotaro Nagata
photograph byKyodo News
posted2017/02/03 07:00
新入団選手発表会見では後列の一番左で写真に収まった菅原。背番号122を背負った男はその打力で“下克上”を狙う。
無名の高校時代、そして一度は大学を退学した。
しかしそうした状況下で、彼は特大の一発を諸積への土産として持たせた。なんという強心臓。諸積の表情も綻んだ。
駿台学園(東京)高校時代のポジションは投手だった。3年夏の東東京大会でチームは3回戦まで勝ち進んだが、全国的には無名の学校。当時の体重は68kgで、現在の183cm、95kgの体躯からは想像もつかないほど線の細い選手だった。
卒業後の進路は埼玉の平成国際大学を選んだ。しかし初めて経験する強豪校の規律、長い練習時間、厳しい練習メニューの何もかもが苦しく感じた。その結果、入部から半年足らずで退部、退学を決意した。
「高校は結構自由な感じでやらせてもらっていたので、部のきびきびした環境が自分に合いませんでした」
いっそこのまま、野球を辞めようとも考えた。退学したことで目的も目標もなく、自由気ままな生活を手に入れた。だけど、そんな自分が空しくも感じた。
「そこで駿台(学園高)時代にお世話になったピッチングコーチの方に『自分はもう野球を辞めました』と挨拶に行ったんです。そしたら『それは勿体ないぞ、まだ野球を続けろ』ってなって」
自主性を重んじる新興大学に居心地の良さを感じて。
そこで紹介されたのが2012年に開校したばかりの日本ウェルネススポーツ大学だった。伝統や上下関係のしがらみもなく、自主性を重んじるチームカラーに高校時代と同じ空気を感じ、居心地の良さを感じた。
「高校の自由な雰囲気に似ているなって感じたんですね。練習も自由にやらせてくれるスタイルで、自分で考えながら伸ばしていくって感じが自分には合っていたと思うんです」
大学2年の秋に投手としての自分に見切りをつけ、野手に転向した。そこ以降はさらなる高みを目指すため、以前とは比較にならないくらいの努力と練習量を己に課した。
「野球で上に行くにはピッチャーでは無理だと思ったので、野手に転向したんですけど、そこからは一日中練習というか、より自分に厳しくやろうと考えました」