相撲春秋BACK NUMBER
拝啓 放駒元理事長
大相撲復活の礎はあなたが作った――。
posted2015/10/20 10:50
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph by
JMPA
拝啓 放駒元理事長
昨年5月場所中に亡くなられた、在りし日の放駒元理事長(元大関魁傑)のお姿が、ふと脳裏によぎった9月の秋場所でした。
1996年以来、東京開催場所としては実に19年ぶりの“15日間連日満員札止め”を記録。5場所連続の“満員御礼”はもとより、この秋場所は、当日券の最後の1枚までをも売り尽くした、とのことでした。大相撲ブームが再来したと、言い切ってもいいのでしょうか。
横綱の日馬富士が全休、3日目からは白鵬も休場となりましたが、ひとり横綱として土俵に上がった鶴竜が、横綱昇進後初となる、悲願の優勝を果たしました。優勝争いを最後まで盛り上げ、鶴竜との決定戦に臨んだのは、次期横綱も近いとされる大関の照ノ富士。照ノ富士といえば、彼の初土俵は、そう――あの「技量審査場所」だったのを、今、私は思い起こしています。
続く不祥事――その対応を、ひとり受けて立った。
2011年3月、東日本大震災で日本列島は激震し、時を同じくして相撲界の土俵も揺れていたものでした。同年2月に八百長問題が発覚し、3月の大阪場所開催は断念。続く5月場所は、NHKによる中継もなく、興行色を一切排除し、入場無料で観客に足を運んでいただくという、前代未聞の「技量審査場所」となったものでした。
'08年に公益法人制度が改革され、おりしも当時の日本相撲協会は、'12年6月に「公益財団法人申請」をすることを目指し、尚一層身を引き締めなければならない、ことに重要な時期でもありました。
にもかかわらず、続く不祥事の数々――。「八百長問題の決着を見なければ、今後の通常場所開催さえ危うい」との、文部科学省からの“待ったなし”の怒濤の攻め。それを、真正面からひとり受けて立ったのは、当時の放駒理事長――貴殿でした。
'07年の時津風部屋新弟子暴行死事件や一部力士の大麻問題で、'08年9月に北の湖理事長が引責辞任しました。続いて、一部での暴力団との交際発覚や野球賭博問題などが明るみに出、後継の武蔵川理事長も'10年8月に辞任。その後、まるで「敗戦処理投手」のように登板し、尚且、今までにない強敵を相手に重責を担う立場となってしまったのが、放駒元理事長だったと言えます。