自分から動かなければ、声をかけられることはない。

　ただ、ソフトバンクが斡旋してくれた企業にすんなりと入社したのであれば「開拓」とは少々言いづらい。だからこそ、江尻は球団の厚意に感謝しつつも、それを甘受することはなかった。

　前年に戦力外を受け、現在はソフトバンクのスカウトとして働く元同僚の山本省吾からは、「自分から動かないと誰も声をかけてくれない」など「元プロ野球選手」の悲哀を詳細にアドバイスされた。そんなこともあって、引退を決めてからの江尻は積極的に動いた。

　プロ野球選手という肩書きがなくなった今、高校や大学時代の同級生からサラリーマン社会の厳しい現実を説かれた。知人を介して、日本でトップクラスの業績を誇る保険営業マンなど、様々な業種で奮闘するビジネスマンから話を聞く日が続いているという。「12月はそんな毎日です」と近況を説明する江尻は、「安易に答えちゃうと迷惑をかけてしまうんで、今は就職先を模索中ってことで」と明言は避けたものの、その姿勢は前向きだ。

「今までって、同級生にしても『プロ野球選手の江尻慎太郎』として見ていたわけで、やっぱり気を使われていたんですね。でも辞めた今は、僕の現状を知った上で社会人の苦労とかを真剣に教えてくれたりするんです。全く知らない世界に飛び込んでいくわけで、現実は甘くないことは分かっています。でも、あえて未知の世界に飛び込んでみたい、チャレンジしてみたいんです！　だから今は、ワクワク感しかないんですね」

無名のエースだった江尻が「開拓」し続けた人生。

　個人的に江尻は思い入れが強い選手だった。

　それは、彼は筆者がプロ野球選手で唯一、過去に対戦経験のある男だったからだ。そのことを告げると、「マジっすか！　僕、覚えていますよ。田口さんの高校のグラウンドで練習試合やりましたよね」と相好を崩しながら思い出話に花を咲かせてくれたことが嬉しかった。

　今から20年ほど前の春。仙台二高のエースだった江尻は、まだ無名の存在ながらも最速135kmを投げる本格派で（今では140kmを出す投手は当たり前だが、当時は135kmでも十分に速い部類だった）、「こういうピッチャーが高いレベルで野球を続けるんだろうな」と感心しながら見ていた記憶が蘇る。

　事実、その直後の東北大会でチームを準優勝へ導き、江尻は一躍注目の投手となった。

　しかし、思えばここから彼の野球人生は「開拓」の連続だった。

【次ページ】　慶応進学を疑わなかったはずが、二浪の末に早稲田へ。