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<Number800号特別企画・地域に生きる> JTサンダーズ 「伝説の名セッター猫田勝敏を生んだ広島のバレー文化」 

text by

小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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photograph byKunihiko Katsumata

posted2012/03/22 00:00

<Number800号特別企画・地域に生きる> JTサンダーズ 「伝説の名セッター猫田勝敏を生んだ広島のバレー文化」<Number Web> photograph by Kunihiko Katsumata

生真面目さが仇となった、ミュンヘン五輪前年の負傷。

 高卒中心のメンバーが、粘りのバレーで強豪を倒す。猫田の芯を成していたものの1つが反骨心であっただろう。どんな時でも手を抜かない――そんな生真面目さが仇となった。

 ミュンヘン五輪の前年に当たる昭和46年9月28日、延岡市で行なわれた旭化成との招待試合で、猫田は右腕を負傷。全治2カ月と診断される、複雑骨折の重傷だった。

 当時を振り返る、西本哲雄の表情は今なお固い。

「フェイントで落ちてきたボールを2人で拾いに行って、後から行った僕の体が右腕に乗ってしまったんです。もう何やってんだろうと。バレーを辞めたくなりましたね」

 脂汗を垂らしながら、それでも猫田は観客席に一礼するのを忘れず、四方に頭を下げてから会場を去った。

 試合後、すぐに西本が病院を見舞うと、「お前が悪かったんじゃないけえ。俺がボウッとしてた。スマンな」と後輩の心中を気遣ったという。

「そういう方なんです。僕のやる気をもう一度奮い立たせるために、松平監督に全日本の合宿に参加できるよう頼んでくれていたことも後から知りました。初参加で練習着を持っていない僕のために、背番号2のついた自分の練習着を手渡してくれて。それを着たら、身長が違うから7分袖のようになって……。あの優しさに涙が出ましたね」

後遺症を抱えながらも掴んだ、ミュンヘン五輪での金メダル。

 猫田はその後、懸命のリハビリに励んだ。腕に金具のボルトを埋めたまま、バスケットのリングを横ではなく縦に取り付け、その網を通すように何度も、トスを通すことを繰り返したという。その様子を、山下が憶えている。

「風呂に入ったときに一所懸命伸ばしたり、マッサージしたり。なかなか骨がつかんかったからね。家では荒れとったとも聞くけど、人前では絶対に弱音は吐かんかったです」

 後遺症でまだ右手首が完全には伸びない状態だったが、猫田はミュンヘンに乗り込んだ。ブルガリアとの死闘を制し、やっとの思いでつかみ取ったオリンピックの金メダルは選手としての集大成であっただろう。

 猫田の推薦を足がかりに、最年少で代表に滑り込んだ西本も、コート上で喜びを爆発させた。

「でも、猫田さんが言うんです。『お前わかっとるな。ワシらにはもうひとつ大事な仕事があるんやぞ』と」

 大事な試合とは、帰国直後に再開される、リーグの入替戦のことだった。西本はこの言葉を聞いたとき、改めて器の違いを思い知らされたという。

「空前の男子バレーブームでしょ。広島空港に降り立ったらすごいひとで。赤いオープンカーに乗って、目抜き通りの八丁堀をパレードしたんです。そんなときも猫田さんは冷静沈着。入替戦に勝って、思う存分抱きつきましたけどね」

【次ページ】 猫田がサンダーズに残した財産とは?

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#猫田勝敏

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