濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
K-1が“濃さ”を保てない理由。
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byMasashi Hara
posted2009/04/01 22:39
3月28日、横浜アリーナで開催された『K-1 WORLD GP IN YOKOHAMA』に、観客を総立ちにさせるような場面はほとんどなかった。全8試合中、5試合が判定決着。うち4つが延長戦にもつれこんでいる。それらはスリリングな接戦というより、お互いが決め手を欠いているように見えた。
ヘビー級王座決定トーナメントで前田慶次郎が優勝したことも、100%の歓喜にはつながらなかった。前田はハリッド“ディ・ファウスト”の欠場によって出番が回ってきた代打選手。優勝したのは事実だが“K-1ヘビー級初の日本人世界王者”にふさわしい存在と認める者は少ないだろう。谷川貞治イベントプロデューサーも「魔裟斗くんが(K-1 MAXで)優勝したのとは意味が違う。今後は本人しだいですね」と語っている。
大会を見ながら感じたのは、K-1にかつてのような“濃さ”がなくなっているということだ。それも当然のことだろう。エントロピーの増大、という表現が適切かどうかは分からないが、K-1はいまや世界中に広まっているのだ。昨年、K-1の名を冠した大会は韓国、台湾、ハワイなども含め14回も開催されている。世界各国から多ジャンルの強豪を集め、トーナメントで“最強”を決めるというコンセプトは、総合格闘技の隆盛によって相対化された。入場ゲートや花火などの演出、つまり“華やかなエンターテインメント空間としてのスポーツイベント”も、珍しいものではなくなっている。かつて我々がK-1に感じた興奮や衝撃は、普及によって否応なしに薄まっていったのである。
それを“スポーツとしての成熟”と捉えることもできる。サッカーの試合が、すべてスリリングなわけではない。プロ野球のペナントレースが盛り上がりに欠けることなど、珍しくはない。実力よりも運に恵まれて金メダリストやチャンピオンになったアスリートは数えきれないほどいる。それと同じように、K-1にも見応えに欠ける大会はあり、ベルトが似合わないチャンピオンも存在するということだ。名勝負と凡戦、熱狂と落胆、それらすべてを含んだものがスポーツなのだ。
ただ、K-1のみならず、日本のプロ格闘技は、競技であると同時に興行でもあるというジレンマから逃れることはできない。“スポーツとしての成熟”が正しい道かどうかは分からないのだ。視聴率と観客動員はジャンルの存在と直結している。常に話題性を高め、視聴者と観客に刺激を与え続ける宿命を負っているのだ。「アマチュア競技として普及、定着すればいい」という“正論”は、おそらく有効ではないだろう。華やかな大舞台という頂点がなくなったとき、格闘技の競技人口は激減するはずだ。
とはいえ、我々は格闘技の中にジレンマを吹き飛ばすような“濃い瞬間”があることも知っている。この連載では、そんな瞬間を求めながら、リングの“濃度”を測っていきたい。