ジーコ・ジャパン ドイツへの道BACK NUMBER
2006年 ドイツW杯総括 ジーコジャパンとは何だったのか。
text by
木ノ原句望Kumi Kinohara
photograph byKaoru Watanabe(JMPA)
posted2006/07/03 00:00
ワールドカップ(W杯)ドイツ大会を1次リーグ敗退という不本意な成績で終えたジーコ・ジャパン。4年間のチームづくりはどこでシナリオが狂ったのか。
「もっとできると思っていたのでこの結果はとてもさびしい」。1次リーグ最終戦のブラジル戦後に、日本代表ジーコ監督はそう言った。
オーストラリアに1−3、クロアチアに0−0、ブラジルに1−4でF組最下位に終わったばかりでなく、日本らしさをみせることもなく、ジーコ監督が思い描いていたベスト4どころか、日本サッカー協会が望んだ2大会連続の決勝トーナメント進出もならなかった。
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2002年7月に着任後、ジーコ監督は一貫して選手に自由を与え、考えるサッカーをさせるように仕向けてきた。それは、1991年に鹿島アントラーズの前身である住友金属に選手として来日して以来、10数年間日本サッカーを見てきたジーコが、日本人選手の「与えられたことは十分こなすことができるがイマジネーションに欠ける」という特性に気がついた結果だった。
考えてプレーさせることで、サッカーというゲームに重要なこの一面を引き出すことができると考えた。そこで、選手を大人扱いし、彼らがミスをしてもできるだけ口を出さずに、自らの手で答えを見つけるまで待つという姿勢をとった。4年間の大半がそれに費やされたと言ってもいい。
その結果、選手間の対話は増え、日本代表はアジアレベルではある程度スムースにパスゲームを展開するようになった。2004年にはアジアカップ連覇も遂げ、ドイツW杯へは11勝1敗の予選通算成績で、一番乗りで出場権を獲得した。だが、そこまでだった。
自由を与えて大人扱いする選手へのアプローチや代表チームでの練習などジーコ監督の手法は、ブラジル代表のそれに通じるものがあった。セレソンとして3度のW杯を含めて88試合に出場した実績を考えれば当然のことだったかもしれない。
しかし、ブラジル代表と日本代表では選手が持っているものが違った。ブラジル選手は、大半が欧州有数の強豪リーグで揉まれ、選手間競争もプロ意識も高く、技術とイマジネーションに溢れ、練習でも選手間で対話を繰り返しながらプレーを修正し、チームプレーを練り上げることができる。言ってみれば、1を言えば10を理解できるレベルだ。だが日本人選手は、90年代半ばにジュビロ磐田でプレーした元ブラジル代表主将ドゥンガに「試合に負けても笑っている選手がいる」と激怒されたように、どこかのんびりとJリーグでプレーする気質がいまだに消えず、技量的にも1を言われてこなせるのは5ぐらいか。ブラジルのレベルにはない。