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副官たちの熱い戦い
text by
永谷脩Osamu Nagatani
posted2007/01/11 00:00
日本ハムは最後に優勝した1981年から、長い低迷が続いていた。活路を求めて札幌に移転し、球団として初めて外国人監督を迎えても、成績がめざましく向上することはなかった。優勝にはほど遠いチームに、浮上のきっかけはないかのようだった。
だが、'04年にゼネラルマネージャーに就任した高田繁には、チームに足りないものが見えていた。
「札幌に本拠地が移ったけれど、このままでは難しいことは分かっていた。このチームは長年Bクラスにいたことから、ぬるま湯体質になっていた。現状では進歩が望めないから、戦う集団にしたかった」
そのために必要だと考えたのは、外から優勝経験のある人を連れてくることだった。それによって負けても悔しがらない体質を打破できる。そう考えたのだ。
かつてのホークスも、チーム作りの第一歩として、FAで優勝経験の豊富なベテランを引き抜くことからスタートし、優勝争いを繰り広げるチームへと成長していった。優勝経験はそれほどに大きなものなのである。
巨人のV9時代を知る高田は、自身が日本ハムの監督をした4年間('85~'88年)のときにも、体質の問題を身にしみて感じていた。GMという職でチームに戻って来た時、まずその体質を変えることから手をつけた。
「監督は現場の指揮権しかないが、GMというのはチームの人事権をも授かるからね」
就任したこの年、高田は、まず、オリックス時代に優勝を経験した佐藤義則を二軍の投手コーチに呼んだ。北海道出身の佐藤は、地元チームに戻ることで故郷に恩返しをしたいと、他球団からの誘いを断って、あえて日本ハムの二軍コーチを引き受けた。高田は、佐藤に言った。
「Bクラスが長く続いたチームのコーチというのは選手を厳しく叱れない。叱れるコーチになってくれ」
佐藤はその言葉を胸に刻みつけた。
そして'05年のシーズンが終わると、高田は佐藤を一軍に昇格させるとともに、打撃コーチには巨人の二軍コーチを辞めた淡口憲治、外野守備走塁コーチにはロッテを辞めた平野謙を呼び、主要部署を優勝経験のある外様コーチで固めた。淡口は巨人、近鉄で優勝を経験しているうえに、近鉄時代には代打の切り札として活躍。一打にかける執念は、日本ハムに欠けているものだった。平野は中日、西武で優勝を経験。西武の黄金時代を支える名二番打者だった。はっきりともの言う性格がロッテのコーチ時代に嫌われた事もあったが、球界では筋を通す男として通っていた。
さまざまなチームから呼んだのは、「優勝経験も一つのチームでない方がいい。いろいろな形の優勝パターンが選手に伝わるはずだから」という考えがあったからだ。
それとともに、高田には狙いがあった。高田は、ヒルマンのメジャー流の、短い練習時間を始めとする合理的なやりかたに、足りないところを感じていた。それを指摘する役目を、彼らに期待していた。
その狙いは的中した。
佐藤、淡口、平野は、家族を残しての単身赴任だった。それもあって、行動を一緒にすることが多かった。
3人は、'05年オフの秋季キャンプで日本ハムの練習を目の当たりにし、同じ思いをいだいた。それは、「弱いチームなのに、練習時間がこんなに少なくていいのだろうか。練習をやらなければいけない年齢に、体を鍛えておかないと選手寿命が短くなる」ということだった。
3人は、信念に基づき、行動を開始した。
'06年2月、新シーズンへ向けて、沖縄県名護でキャンプが始まると、キャンプ早々、平野はチームの面々を前に、こう言い放った。
「北谷(中日のキャンプ地)では午後5~6時まで平気で練習をやっているのに、うちは2時に上がっている。そんなのあるか!」
淡口もまた、若手選手たちに、こうハッパをかけた。
「打つのが仕事の連中はバットを握ればいいし、投げるのが専門の連中は投げなければ上手にならない、そんな当たり前のことがわからないのか」
そして長時間にわたり、トスを上げ続けた。
そのトスに最後まで音を上げずについていった一人が、7年目の田中賢介だった。田中は、現役時代には“バントの名手”と言われた平野からもバント時の手首の返し技を伝授された。
投手コーチの佐藤は、44歳まで現役生活を続けた長寿の投手だった。その実績を生かし、オリックス、阪神でのコーチ時代、選手を練習に向けさせるための説得の材料の一つとして、「いかに長生き出来る選手になれるか」ということを語り続けた。日本ハムにやってきた時、いいボールを投げるにもかかわらず、二軍にくすぶっている投手がいた。武田久だった。武田は、右ひじ痛を抱えていた。佐藤は、どうしたら故障しにくいフォームを作れるかを二人で徹底的に話し合った。その結論が、スリークォーターにすることだった。武田は、それを受け入れ、新しいフォームを作っていった。
ダルビッシュ有もまた、1年目の二軍時代からの佐藤との話し合いで徐々に変わっていった。ダルビッシュは、投げ込みが嫌いだった。ところがこのキャンプで、初めて1日100球を超える投げ込みをしたのだ。
佐藤は言う。
「投げ込みを強制したわけではない。二人でどうしたら長持ちするかを話し合い、投げる体力は投げることでしか作れないという結論に落ち着き、ダルビッシュも納得した。そういうことです」
佐藤はまた、阪神のコーチとして優勝した'03年から、“失点の8割は四球絡み”という持論をもつようになっていた。そして日本ハムでも、いかに四球を少なくするかだけに神経をとがらせていた。そして、“コントロールをつけるのは投げ込みしかない”という考えを浸透させていき、キャンプ中、10球中8球がストライクになるまで投げ続けるメニューを課した。
3人のコーチは、シーズンが開幕しても、自らの経験と信念をもとに、アドバイスを選手に与え続けた。
平野は試合中でも、新庄剛志、森本稀哲、稲葉篤紀とも、守備位置について徹底して議論を交わした。新庄に対しても遠慮なく怒鳴ることもあった。その中で、新庄もまた、平野にしばしばアドバイスを求めるようになっていった。平野はこう言う。
「あいつは野球に関してはものすごく真剣。返球はどこに投げればいいか、楽に捕るにはどの守備位置がいいか、常にアドバイスを求めてきた」
平野は三塁コーチにも立っていたが、しつこく選手に教えたもう一つのことがあった。それは、「俺が責任を取るから勇気を持って、一つ先の塁を狙え」ということだった。
3人は、遠征先でも、食堂で口角泡を飛ばして野球談義に興じた。稲葉、中嶋聡ら、他チームから移籍したベテランたちが信頼を寄せ始めた。やがて野球談義の輪に、森本らの生え抜きも加わるようになっていった。グラウンドの内外で、チームの雰囲気は明らかに戦う姿勢に変わっていた。
それが結果となって表れたのが、7月の快進撃だった。11連勝を飾り、球団最多連勝記録。8月以降も勢いは衰えず、とくに9月は本拠地では1敗しかしなかった。
シーズンを終えてリーグ1位。平野が鍛えに鍛えた外野守備は、12球団No.1と言われるほどになっていた。佐藤が徹底してきた「四球を与えない」という方針の結果、投手陣が与えた四球は、'05年の467個から382個へ減少。ダルビッシュは5月から10連勝を記録し、終盤には闘志を前面に出し、立派に一人立ちした。淡口、平野が熱心に指導した田中賢介は、レギュラーを獲得し、決めた犠打は34個。クリーンアップのチャンスを広げるのに大きく貢献した。
変貌を遂げた日本ハムを象徴するシーンといえるのが、プレーオフ第2ステージのソフトバンク戦のことだった。稲葉の二塁内野安打で、森本が二塁から本塁に生還するという快走を見せたのだ。森本はこう振り返る。
「一つ前の塁を狙えという平野さんの天の声が聞こえたんです」
日本ハムは日本シリーズで中日を4勝1敗で下し、44年ぶりの日本一に輝いた。高田が呼んだ外様コーチたちの力が、そこに大きく作用した結果だった。
その高田は、今、こう語る。
「よそで優勝を経験しているコーチを入れることでチームに波風が立った。それが大きな波になって、押し寄せたという感じがする。その意味で、3人の存在は本当に大きかったと思う」
今オフ、日本ハムは、小笠原道大が巨人移籍、新庄剛志が引退、投手陣では新人の八木智哉が1年目から代理人をつけての契約更改に臨み、ダルビッシュは、肩の治療に専念するためにV旅行を辞退するなど、問題点がいくつも露出している。
「横浜が38年ぶりに日本一になった時に似ている。横浜高の松坂大輔をクジ引きで西武に獲られたのと同様、駒大苫小牧の田中将大が楽天に行ってしまったし、優勝の後明るい話題がない」
横浜が優勝した当時の監督だった権藤博は、今の日本ハムの現状をこう表現した。
これらの問題を乗り越えて、3人のコーチによってもたらされた経験が、チームの本当の血となり肉となるのか。
改革は、まだ始まったばかりだ。