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井川慶 約束の地へ。 

text by

平山譲

平山譲Yuzuru Hirayama

PROFILE

posted2007/04/19 00:00

 脱いだコートを畳んで椅子に置くと、井川慶は眠たげな眼をこちらに向けた。

 「同じアメリカでも」と彼はいった。

 「まったく違いますね、4月なのにまだ寒いし、道路は運転しづらいし、渋滞がひどくて、マナーも悪い。関西人の3倍くらい、ニューヨーカーは荒っぽいですよね」

 ニューヨーク・ヤンキースのキャンプは全日程を消化。アメリカの長閑な地方都市の典型のようなフロリダ州タンパから、北へ約1700キロ。このさき長らく彼のホームタウンとなる大都会、ニューヨークへとやってきた。常夏の避寒地で1カ月以上日焼けしつづけた肌に、こんどは刺すような冷たい風。この日の最低気温は氷点下で、朝からの雨が午後には雪に変わった。そして街は、車や観光客の喧騒と排気ガスの匂いで満ちている。待ちあわせたブロードウェイにあるホテルの一室に、交通渋滞のせいで40分遅れて入ってきた彼は、「1年間ここに住めたら、アメリカ中どこでもやっていけそうな気がします」と笑った。

 4月4日、ヤンキースの試合が雨天順延され、同時に彼の登板日も1日先送りされた。メジャーリーグデビュー戦がスライド登板、しかもナイトゲームからデーゲームへの変更。オープン戦6試合のうち、夜は2試合8回で自責点0。昼は4試合15回で自責点8。デーゲームが苦手なのは日本時代から顕著だっただけに、緊急事態ともいえる。だが渋滞中に眠くなったという彼の表情からは、焦りも気負いも感じられない。ヤンキースタジアムでは雨も気にせず予定どおりの練習をこなしてきた。表向きは、日本にいたときとなにも変わらない、泰然自若とした雰囲気そのままである。

 「でもね──」

 ベッドの角に浅く腰掛けると、その日そのときのマウンドでの自分を想像するように天井を見上げながら呟いた。

 「いつもと同じ試合、いつもと同じ気持、というわけではないですよ。四球を連発したプロ初登板も忘れられない思い出ですけど、メジャーデビュー戦もメモリアルゲームです。結果がどうこうとか、ゲームを作ろうとか、そんなことはあまり気にせず、全力で投げたいです。そんなふうに思えるのは、きっとこの試合だけでしょうからね」

 阪神タイガースのエースとして、最多勝、最多奪三振賞、沢村賞、最優秀選手賞と、数々の栄冠を手にしてきた。それらに甘んじることなく、口にした世界最高峰への挑戦の夢。どれだけの人々に反対されても、頑なに意志をつらぬきとおした。自らに、かならずそこへたどりつくといいきかせながら。

 2007年4月7日。

 井川慶、メジャーリーグのマウンドという、約束の地へ。

 窓外にクラクションが絶え間なく響く一室で、産声をあげる直前のメジャーリーガーに心境を訊いた。

──オープン戦は序盤こそ四球の多さが不安視されたものの、尻上がりに調子をあげてきた。最終的には6試合で防御率3.13、奪三振はチームトップの22だった。

 「オープン戦初登板は久々の試合ということもあって、なかなかストライクが取れずに腕が縮こまってしまいました。それと、メジャーで使われている意味もなく大きなロージンバッグを触ったら、さらさらした粉がたくさんついて球が滑りまくって。球の縫い目やマウンドの固さが日本と違うことは気になりませんでしたが、あのロージンにはやられましたね。もう二度と触りません(笑)。オープン戦2戦目からは腕をしっかり振りきることを意識したら、真っ直ぐの走りも変化球のキレもよくなってきました。狙って三振も奪えました」

──オープン戦後半はチェンジアップを多投していたこと、ストレートの球速が140km台後半と、日本でのオープン戦時より速かったこと、スライダーの落差が大きいことが眼についたけれど。

 「ここ数年、チェンジアップに納得できていなくて、あまりにも悪かったときは決め球として使えないこともありました。メジャーではそういうことがないようにしたかったので、精度をあげるために多投しました。オープン戦最後の試合では決め球として思いどおりにコントロールできましたし、まずまずの仕上がり具合です。この時期にしては真っ直ぐの球速が速いのは、焦って調整したからではなく、暑いタンパで投げていて自然と体の調子がよかったことによると思います。高めの速球でファウルを打たせることができたことは、シーズンもいけるという自信につながりました。またスライダーは、メジャーの使用球だといままで以上に曲がってくれます。メジャーの投手が投げるスライダーは、カット系の速い球が多いですよね。自分のスライダーは落ちぎみに曲がるので、打者が軌道に慣れていないのかなと。ストライクゾーンに入るスライダーでも空振りしてくれると、なんだか不思議な感じがします」

──メジャーリーグの打者と対戦した、全体的な印象は?

 「体格が大きいだけあって、さすがに主軸打者になるとパワーがあるなと感じます。飛んでゆく打球の速さが違いますから。オープン戦では、自分がルーキーなのでどんな球を投げてくるのか見てくる選手が多かったぶん、ファーストストライクさえ奪えれば有利な投球ができました。それが本番ではどうなるか。まあ、メジャーリーガーといえど、同じ人間です。ミスショットもあれば、空振りもある。それに、メジャーの使用球はあまり飛ばないように感じます。日本だったらホームランになる当たりでも、ふつうの外野フライだったり。あまり相手のことを意識するのではなく、まず自分のスタイルを出すことに集中したいです」

──ヤンキースの他の先発投手や、女房役となるキャッチャーのホルヘ・ポサダのリードについての印象は?

 「もちろん自分はルーキーですし、まだどんな投球スタイルなのかわかってもらっていません。いまは、ポサダのサインに首を振ることで、自分らしさを出させてもらっています。他の投手は、みんな凄いですよ。いまは怪我をしていますが、王建民とキャッチボールしたとき、きゅっと手許で変化させたり、ずどんと重い球を投げてきたり、さすがだなという感じでした。そういう投手たちからもいろんなことを勉強させてもらいながら、自分自身向上していきたいです」

──4月2日、ヤンキーススタジアムでのメジャーリーグ開幕戦、岩村明憲もデビューしたタンパベイ・デビルレイズ戦をベンチから見ていて感じたことは。

 「メジャーの試合を最初から最後まで見たのはこの開幕戦が初めてでした。ヤンキースタジアムは満員だったこともあって、いい雰囲気でしたね。イニング間にも観客を飽きさせない工夫をしていて、野球がエンターテイメントになっているなと。野球に関しては、ヤンキース打線、よく打ちますよね。投手としては頼もしいですし、しっかりゲームを作っていけば自分も勝利に貢献できるかなと。世界一も狙えるチームに入ることができて、いいチャンスを与えてもらいました。ア・リーグには素晴らしい日本人打者もたくさんいて対戦が楽しみですし、いよいよ始まったなという感じです」

日本で投げていても、視線の先はずっと遠くにあった。

──ようやく目標としてきたメジャーリーグのマウンドに到達するわけだけど、ここまで長い道程だった?

 「日本でたくさん賞をいただいても、これが一番という証ではないんだ、まだまだ上の世界があるんだと自分にいいきかせてやってきました。自分がプロ入りしたばかりの頃、周囲には技術的、能力的に自分より優れている選手がたくさんいました。でも、彼らはなぜ一軍にあがれないんだろう、それなら彼らより劣っている自分は、同じメニューを消化するだけでは駄目なんだと思い、一生懸命練習してきました。一軍に昇格してからは、体に張りを感じても、どんなに疲れていても、怪我をしないことを前提としつつも、自分自身を追いこんできました。ふつう先発投手は登板日に合わせた体作りをしますが、自分の場合は100%の状態で試合に臨めなくても気にしませんでした。目先の試合ではなく、もっとずっと先を見据えたトレーニングをしてきました。この程度の球では、ここでは通用しても、メジャーにあがったら抑えられないぞ、と思ったりしながら」

(以下、Number676号へ)

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