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<アルペンスキーの革命児> 皆川賢太郎 「『80%の滑り』の境地」 ~特集:バンクーバーに挑む~
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph bySatomi Tomita
posted2009/12/26 08:00
スキーを突き詰めて考える。怪我が皆川の滑りを変えた。
リハビリを経て、'02年11月、アメリカの大会で復帰を果たす。だが、大会では結果が出ない。入賞にはほど遠く、コースアウトで失格することも珍しくなかった。苦しい時期が続いた。
ところが、あるとき、すべてが一変した。
「歯車があうってこういうことを言うんだ」
一気に流れが変わったのだ。
いったい、何が起きたのか。
「“無自覚”じゃなくなったことが大きかったんだと思いますね」
と、皆川は振り返る。
「怪我をしていない人だと、例えば1から10の間を1、5、10と感じれば済むようなことを、怪我をしているからもっと感覚的に研ぎ澄まさなきゃ、と努めました。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10って分割していくというか。怪我の前は、何も考えなくても、当たり前のように足首は前に入るものだし、膝は倒れるものだし、スキーはカービングするものだった。でも怪我をしてからは、明確に意識してやらなければいけなくなったんです。ここをまず曲げてそれからねじこんでとか、ブーツのどこにプレッシャーをかけて、と。そういうことを繰り返して、今まで当たり前だったことを突き詰めて考えました。
すると、スキーの特性だったり、自分が理想とする選手と比べると、いろいろ抜けていた部分がたくさんあったりすることにも気づいた。ただ漠然とスキーをしているレベルだったのが、あらゆる段階で明確なものを自分で求めるようになっていました。その積み重ねが大きかった」
怪我によってハンデを負ったがために、当然のことが当然でなくなる。それが、探求心の向上へとつながった。やがて、「ブーツの裏にも神経が通っていると感じる」ほど、滑りは研ぎ澄まされていった。
「80%の滑り」を体現し、トリノ五輪で50年ぶりの4位入賞。
怪我は、気持ちの面でも変化をもたらした。
「怪我してからは周囲の期待は当然なくなったけど、自分自身は変わっていない。自分だけ取り残されているような感覚だったんですね。その中で考えたのはこんなことです。いろいろな現実を後付けで人は評価する。それを手前でほしいから、選手は言葉で人をひきつけようとする。俺、今回頑張ってメダル獲りますよとか、最高にいい状態ですよ、とか、そう思ってなくても、言うことによって自分が強い人間だとみせたい。でも怪我をすれば、誰も期待なんかしない。それで、まずは現実を作ることのほうが大切だとようやく気づけた。速く滑ることへの純度が高まった。誰がどう評価するかはそのときのことでしかないし、背伸びをしなくなりましたね。何でも本当のことを言えばいいと思えた」
今までにない滑りの手ごたえ、メンタルの充実。その中で迎えたのがトリノ五輪だった。
試合を前にした記者会見で、皆川は抱負を語った。
「(ソルトレイクシティ五輪では)勝ちたいという気持ちが強すぎました。今はレースを組み立てることができる。やるべき準備は全部できました」
会見では、この言葉も飛び出した。
「80%の滑りをしたいと思っています」
2月25日。1回目でトップと0.07秒差の3位につける。迎えた2回目。真っ暗な空のもと、照明に白く照らされた雪上で、皆川はスタートを切った。直後、右ブーツのバックルが外れるアクシデントに見舞われる。だが、皆川は、アクシデントがあったと感じさせないスムーズな滑りで、コースアウトすることもなくゴールを駆け抜けた。歓声が湧き起こった。日本の応援団ばかりではなく、欧米の観客も声を上げていた。
結果は4位。欧米ではウインタースポーツの花形競技であり、選手層は厚い。競技環境の違いもある。日本の選手は厚い壁に撥ね返されてきた。だからこそ、それを打ち破っての50年ぶりの入賞は快挙であった。
そしてそれは、「80%の滑り」の体現でもあった。