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<三浦知良とD・ジェイムズの往復書簡>
ドーハで命名されたKING KAZUの由来。
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph byMegumi Seki
posted2011/04/20 06:00
今回の差出人
デイヴィッド・ジェイムズ ~“KING KAZU”の名付け親~
1960年、北アイルランド生まれ。'92年から'98年までカタールで、記者として活動。現在はAFP通信パリ本社でスポーツ部次長を務める。'93年、カタール・ドーハで行われていたアメリカW杯アジア地区最終予選を取材し、日本代表対北朝鮮戦の記事を翌日の「ガルフ・タイムズ」紙に執筆。世界で初めて“KING KAZU”という見出しを付けたことから、“キング・カズ”の命名者として知られる。。
親愛なるカズへ
1993年、僕はカタールの「ガルフ・タイムズ」で働いていた。そこで取材をしたのが、'94年アメリカW杯のアジア地区最終予選だった。
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最終予選には6カ国が参加していたが、湾岸戦争などで政治が暗い影を落とすことが懸念されていた。この大会の雰囲気を明るく華やいだものにするためにも、僕たちはスターを必要としていた。そこに颯爽と登場したのが、“カズヨシ・ミウラ”という名の選手だった。
特に素晴らしかったのは、北朝鮮戦だ。あと1敗でもすればW杯本大会への夢が事実上絶たれる状況だったにもかかわらず、カズは日本代表に再び希望の灯をともした。数千人の日本人サポーターがカズに熱狂する光景は、今でもはっきりと目に焼き付いている。
原稿を書き上げ、最後に“KING KAZU”という大見出しをつけた。
試合が終わるやいなや、僕はカメラマンと共にアルアハリ・スタジアムからガルフ・タイムズに車で直行。約30分でオフィスにつくと一気に原稿を書き上げ、最後に“KING KAZU”という大見出しをつけた。このタイトルはまさにぴったりだったと思う。残念ながら日本代表は最後の最後でアメリカ大会行きのチケットをつかみそこねたが、北朝鮮戦での活躍ぶりと、この大会における存在感の大きさを表現するには、“KING KAZU”だけで十分だったからだ。
だが印刷所に原稿を送る前に最後の作業が残っていた。当時の中東諸国には検閲制度があった。僕は、エジプト人の検閲官による原稿チェックが終わるのを、じりじりとした気持ちで待っていたことを覚えている。
「カズがいまだ現役を続けているという知らせ」に覚えた嬉しい驚き。
僕は今回、“KING KAZU”というフレーズを世界で最初に掲載したのがあの記事だったこと、そしてその後「キング・カズ」という言葉が日本でもごく一般的に使われるようになったことを初めて知った。
これは僕にとって非常に名誉だし、嬉しい驚きでもあった。
だが、それと同じように嬉しい驚きを覚えたのは、カズがいまだ現役を続けているという知らせだ。ともあれ、このドーハでの最終予選から約18年。日本はその後、フランスW杯で初出場を果たし、昨年の南アフリカ大会でも旋風を巻き起こした。現在、「ブルー・サムライ」の一員に名を連ねているメンバーの中には、あの日のカズの姿に感動を覚え、サッカー選手を志した選手も多いのではないか。
僕は今、パリに拠点を移してジャーナリストとして活動を続けている。去年は広州を訪れ、日本が初の金メダルを獲得したアジア大会のサッカーを取材した。もちろん、次の「キング・カズ」をさがすためだった。
親愛なるカズ。君がスポットライトを浴びながらプレーし続ける日が、これからも長く続かんことを。