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<本格派誕生秘話> 澤村拓一 「不器用さが生んだ剛速球」 

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高川武将

高川武将Takeyuki Takagawa

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photograph byYusuke Nishimura

posted2011/04/15 06:00

<本格派誕生秘話> 澤村拓一 「不器用さが生んだ剛速球」<Number Web> photograph by Yusuke Nishimura

セレクションで「運よく拾われ」東都二部の中大へ。

 松本の脳裏に焼きついているのは、3年の夏が終わり、野球漬けの日々からの解放感で遊びに走る選手たちの中、澤村だけが黙々と練習を続ける姿だった。先輩の会田有志(中大―巨人)の薦めで受けた中大のセレクションに合格した澤村は、毎日、走り、投げ、ウェイトトレーニングにも取り組み始めた。

「もう一回、大学で勝負するという気持ちだったんでしょう。大学に入ってからも、オフになると必ずここに来て練習してましたね。遠投が好きでねぇ。ボンボンボンボン……低い弾道でビューンと行くから、皆、たまげてましたね」

 学校の広大なグラウンドを見やると、つくづくといった感で呟くように言った。

「いやぁ、本当に凄い。何であんなに変わっちゃったんだろう……」

 高3の夏、中大のセレクションで、まだ細身だった澤村は1球だけ、141kmをマークした。当時、コーチだった高橋善正監督は「特に見るべきものはなかった」という。

 当時の中大は東都の二部。高校の一流どころは集まりにくかった。早い話、運よく拾われたのだ。1年春からマウンドに上がった澤村だったが、ストレートへの拘りは全く変わらず、真っ直ぐ一本やりの投球だった。

「下級生の頃はそれでもいいんだよ。だって、ピッチャーとして認めてないから。バッターにしようかと思っていたくらいだからね」

「お前はピッチャーじゃない、単なる『投げ屋』だ!」

 一部昇格した2年秋、澤村の球速は150kmを超えるようになった。その頃から、高橋は澤村に容赦ない罵声を浴びせるようになる。

「お前はピッチャーじゃない。単なる『投げ屋』だ!」

 かつて中大で35勝を挙げ、1967年にドラフト1位で東映(現・日本ハム)に入団。右サイドハンドからの絶妙なコントロールを武器に、'71年に完全試合を達成するなど活躍し、数球団で投手コーチを歴任した高橋にとって、澤村はおよそピッチャーではなかった。

「ただ、強い球、速い球を投げたいだけの投手。ピッチャーとして丸っきり評価していなかった。肝心なところで抜けたボールを投げて一発を浴びる。チームを勝たせる投手じゃない。コントロールと変化球を磨けと、口うるさく言ってきた。プロに行ける球の力はあった。でも、プロに行きたいなら、入団1年目から10勝できるピッチャーじゃなきゃ意味がない。投げ屋じゃ勝たせてくれないんだ」

 高橋が説き続けたのは、ピッチングとは何たるものかという当たり前の理屈だった。スピードガンと勝負しても自己満足にしか過ぎない。打者を打ち取るのがピッチャーだ、と。

 真剣に耳を傾ける澤村だったが、高校時代同様、その投球内容は、全く変わらなかった。真っ直ぐで押しては打たれ、降板するとベンチ裏で一人、泣いていた。

【次ページ】 ウェイトトレーニングがより過剰になっていく……。

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