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「帰ったら、獲ったよって報告したいです」スキージャンプで2つの銅メダル…丸山希を支えた競技前日の“突貫工事”と亡き母が残した言葉「何かで一番になりなさい」

2026/03/05
ケガで幻になった北京五輪から4年。今季、一躍メダル候補に躍り出た。快進撃の一方で不安とも戦ってきた“末っ子”は、今大会で銅2つを獲得。そんな彼女の道しるべとなったのは、大切な家族が残してくれた言葉だった。(原題:[亡き母の想いを胸に]丸山希「獲ったよって報告したい」)

 女子ノーマルヒルの競技を翌日に控え、選手村では突貫工事が行われていた。立て直していたのは、丸山希の助走姿勢だった。

 プレダッツォのジャンプ台はなかなか特徴がつかみづらく、2度の公式練習では最後まで好感触を得られなかった。そのため、土壇場まで陸上でのシミュレーション練習を繰り返すことになった。コーチ陣の意見は「最初に組む時のすねの角度が甘い」ということで一致し、高めのスタートゲートからすぐに板に乗れるようにゲートに浅めに腰かけることも確認。一応の結論には辿り着いた。

 あとは実際にジャンプ台で実践してみなければわからない。4年に一度のNo.1を決める瞬間は刻一刻と近づいていた。

「何かで一番になりなさい」

 人口約3000人の長野・野沢温泉村で、3人兄妹の末っ子として育った丸山は、よく母・信子さんにそう言われたという。

「兄と姉にはすごく優しいのに、私はよく怒られてました。当時はなんでまた私? と思ってましたけど、兄と姉は成長して、私だけまだ好奇心旺盛な子供だったので、すごく心配だったんだろうなと」

 姉のあとについていって地元のクラブで小学生からジャンプを始めた。勉強は苦手。中学から徐々に頭角を現し始めた丸山には、母の言葉が道しるべとなり、いつしか自分はジャンプで一番を目指すんだと思うようになっていた。

 その母が亡くなったのは高3の冬のこと。翌週には札幌で初めてW杯に出場しようかというタイミングだった。入院していた母の容体が急変したと連絡を受け、丸山はすぐに病院に駆けつけた。ところが、告別式には参列することなく、すぐに札幌に戻った。それは母の遺志だった。

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photograph by Tsutomu Kishimoto / JMPA

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