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【西武ライオンズ】ルールギリギリで「適材」を集め、現場で「適所」に配置する――工藤公康が振り返る“寝業師”根本睦夫&“管理野球”広岡達朗が作り上げた「黄金の人材開発術」

2025/10/26
広島との'86年日本シリーズ第8戦。最後を工藤が締め、3連敗から逆転日本一に
チーム創立4年目のリーグ初制覇から、13シーズンでリーグ優勝11回、日本一8回。その投手陣の柱となり、のちに福岡の地で常勝軍団を率いた名左腕が、当時のライオンズの人材開発術を読み解いた。(原題:[左腕エースの回想]工藤公康「『適所』から導いた獅子の骨格」)

 黄金時代は、いかにして作られたのか?

 1980年代から'90年代にかけ、西武ライオンズは時代を築いた。'82年から'92年までの11年間で日本一になること8度。編成を担当したのは、1926年、大正15年生まれの根本陸夫である。「球界の寝業師」の異名をとり、「根本マジック」で広島、西武、ダイエーの3球団の礎を築いた。

 '81年のドラフトでは名古屋電気高(現・愛工大名電高)の工藤公康を獲得。熊谷組に進むと言われていた左腕を、監督の広岡達朗の進言を受けて6位で指名したのも、黄金時代を築く上で大きな意味を持った。

「社会人に進んで実力をつけてからプロへ、と考えていました。それがいきなりですよ。だから、僕は入団するまでは根本さんのことは知りませんでした。根本さんはチームのビジョンを作るために、最初は監督をやるんです。ライオンズでは'78年から'81年まで、ホークスでは'93年と'94年の2年間。その間にチーム、人間を観察して、戦力的に何が足りないのか、どんな人材が必要なのかを見極めて人事を考えていたはずです」

Asami Enomoto
Asami Enomoto

 '78年のオフ、ライオンズはクラウンライターから西武鉄道へと売却され、根本は引き続き指揮を執り、西武の初代監督となる。

「チームづくりはバッテリーを強化するところから始まります。それから各ポジションでリーダーになれる人材を獲得していく」

 '78年のドラフトでは住友金属の森繁和を指名し、さらにはなぜかドラフトで指名されなかった博久・雅之の松沼兄弟と、巨人との交渉争いを制して契約を結ぶ。

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photograph by Makoto Kemmisaki

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