#885
Special Feature

記事を
ブックマークする

《阪神タイガース特別読物》1985:猛虎がひとつになった年。~球団初の日本一は「最強打線」が理由だったのか?~

2023/10/27
チーム本塁打219本を放った猛虎打線の爆発による日本一。この年のタイガースは、そう記憶されていることだろう。だが、吉田義男が求めたのは“チーム一丸”だった。(初出:Number885号[球団史上初の日本一]1985 猛虎がひとつになった年。)

 1985年(昭和60年)は阪神の球団史に於いて特別な光を放つシーズンである。

 吉田義男監督が率いたこの年のチームはランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布というクリーンアップを軸にした最強打線を背景に21年ぶりのリーグ制覇と球団史上ただ1度の日本一へと登りつめた。

 その序章となったのが4月17日、甲子園球場での巨人戦で飛び出した伝説のバックスクリーン3連発である。

 立役者の一人、ランディ・バースはそのときのことをこう振り返る。

「あの年のチームはパワーのあるチームだった。カキ(掛布)、岡田、真弓……ピッチャーは少し弱かったけど、打線にはその弱さもカバーできるぐらいのパワーがあった。勝つためには自分がもう少し打つことだった。そうすればいけるんじゃないかと思って臨んだシーズンだったんだ」

 2点差を追う7回だった。2死一、二塁で3番・バースが打席に立った。マウンドは150kmの豪球で売り出し中のパワーピッチャーだった槙原寛己だ。

「槙原は150kmを超すストレートを投げる生きのいいピッチャーだった。しかも前の打席ではシュートを打ってゲッツーに倒れていたから、あの打席ではムリに引っ張らずにセンター方向に打ち返すことを意識していたよ」

 狙い通りに初球の144km、甘く入ったシュートを捉えた。

「自分の中では感触は悪くなかったけど、完璧ではなかった。だから打った瞬間はフェンスにダイレクトに当たるか、ひょっとしたらスタンドに入るかなと思った。そうしたら打球は思った以上に伸びていった」

会員になると続きをお読みいただけます。
オリジナル動画も見放題、
会員サービスの詳細はこちら
特製トートバッグ付き!

「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています

photograph by Bunshun

0

0

0

前記事 次記事