完璧な演技ができず、バンクーバーのリンクでは、涙で頬を濡らした。その後、名伯楽に師事することを決断し、再出発に取り組んできた。一時、国際大会の表彰台から遠ざかった天才スケーターは、佐藤信夫コーチとともに、自信と笑顔を取り戻して最後の五輪に挑む。(初出:Number846号[集大成の舞台に挑む]浅田真央「涙のバンクーバーから最高のソチへ」)
愛知県豊田市にある中京大学のリンク。浅田真央は午前中の練習が終わると、佐藤信夫コーチに声をかける。
「先生、ご飯行きましょう」
周囲を畑に囲まれ、車がないとランチを食べに行くことも出来ない。横浜から新幹線通勤の佐藤を気遣い、浅田は自分の運転で、ご飯に出かけるのだ。
「まるでデートですよ、こっちが緊張する」
と佐藤は冗談めかす。2人がいく店は決まっている。リンクから車で15分ほど、昭和の香りが漂う定食屋である。ご飯を食べながら、浅田は色々な話をする。格好いい男の子、芸能人、食べ物の話……。
「僕はそんなに話す方じゃないし、彼女がずっと色々としゃべってる。スケートの話は出ないですね。可愛いですよ。孫がいたらこんな感じなんだろうなあって」
仲むつまじい2人は、充実した4年目のシーズンを過ごしている。浅田も言う。
「今年は、本当に信夫先生の目指しているスケートが分かるし、同じ方向を向いている。一緒に3年間積み重ねてきた、そのうえに今の自分があるというのを感じています」
4年前は、2人がこんな風に笑顔でソチ五輪を目指す姿は想像も出来なかった。バンクーバー五輪での惜敗、その後の成績不振、母の死。国民的アイドルは、いつしか悲劇のヒロインになった。
15歳で参加した’05年のグランプリファイナル―。年齢制限で翌年のトリノ五輪に出場できない可憐な少女は、小鳥が羽ばたくように軽々とトリプルアクセルを跳び、世界女王、そして日本のアイドルとなった。しかしこの笑顔を最後に、辛苦の8年がスタートした。
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photograph by Yukihito Taguchi