大谷翔平が吠える。グラブと帽子を夜空に放り投げる。「はるか遠い次元に行ってしまった」と評していた高校時代のライバルがついに世界一の称号を手に入れた瞬間、藤浪晋太郎は何を感じたのだろうか。
「もう……すごいとしか言いようがない。自分が語れるレベルではないですよね」
柔らかな語り口からは終始、ピュアな感動だけがこぼれ落ちた。
WBC決勝当日の朝、ひと足先に米国との“前哨戦”を終えていた。アスレチックスのキャンプ地、アリゾナ州。いつも通りクラブハウスに足を踏み入れると、この1カ月で打ち解けた仲間たちから予期せぬ「USAコール」で出迎えられた。
「みんな『USA! USA!』っていじってくるし、『日本はノーチャンス』だとか……。思わず笑っちゃいました」
だからという訳ではないだろうが、アリゾナでの滞在先のコンドミニアムで結末を見届けた10分後、声はどこか弾んでいた。
「一日本国民として純粋にうれしい。2大会連続で優勝を逃していた中で日本のレベルの高さを証明してくれたので」
前回'17年WBCでは準決勝進出メンバーの1人だった。参加できなかった今大会には嫉妬に近い感情も混在したのでは? 少しいじわるな質問には丁寧に反論した。
「もちろん、選ばれなかった自分に悔しさはある。あの雰囲気を味わってみたかった気持ちもある。絶対に熱くなれるし、楽しいでしょうから。でも今の自分は選ばれる選ばれないを語れる立場にはない。誰かと比べても仕方がないし、それよりも自分のことをしっかり……という感じですかね」
夢に突き進む人間だけが醸し出せる落ち着きが、言葉の端々からにじみ出た。
極秘裏に大リーグ挑戦希望を直訴したのは'21年12月のことだった。
6年連続減俸を余儀なくされた契約交渉の席上、1年後のポスティングシステムを使っての移籍容認を阪神球団幹部に願い出た。本来の輝きを取り戻せないまま、同年は21試合登板で3勝3敗、防御率5.21。門前払いも覚悟の上でエゴをぶつけたのには訳があった。
「タイガースでいい成績を残して、優勝させてから行くのが一番だとは分かっていた。でも、メジャーは『行きたいならどうぞ』という舞台ではない。今言わないと野球人生が終わった時、死ぬ時にめちゃくちゃ後悔すると、心の底から思ったんです」
ここ数年「終わり」を意識した言葉が目立つようになった。時には制球難をイップスと揶揄され、先発、中継ぎと起用法も定まらない日々。出口の見えないトンネルの暗闇で長くさまよい続ければ、嫌でも悟らざるを得なかったのかもしれない。
「使われ方を客観的に見ていて、先が見えてきたなと。それに、いつ故障してもおかしくないと考える機会も多くなって……」
今だから明かせる。
藤浪は初めて中継ぎに配置転換された'20年秋、体中から発せられる危険信号に人知れずおびえ続けていた。
「このまま投げ続けたら、ホンマにつぶれてしまうんちゃうかな……」
それは自身最速162kmを計測し、ついに完全復活かと甲子園、野球ファンを熱狂させていた時期の裏話だ。
「人の勝ち星とか勝利打点を背負って投げる場面はそれだけ気持ちが入る。多分、アドレナリンが出すぎて、越えてはいけない一線を越えて腕を振り切ってしまっていたのでしょうね。普通に投げているつもりでも常時150km後半、160km台が出る。あの状態を続けていたら、あと数年で野球ができなくなっていたかもしれない」
選手生命の危機さえも予感させる恐怖にさいなまれていた頃から、大器の価値観には変化が生まれ始めていたように映る。
「自分だって、いつまでもずっと野球をできる訳じゃない」
不変の真理を再確認させられたのは'22年晩夏、あるテレビ企画で阪神OBの鳥谷敬氏と対談した際のことだ。
「どうして毎日あそこまで自分を追い込めるのですか?」
素朴な疑問をぶつけると、大先輩は弟への思いを静かに語り始めた。
「実は3兄弟の一番下の弟がさ……」
鳥谷氏の弟も球児だった。兄の背中を追い、埼玉・聖望学園で有望株として名を馳せていた高校時代、病気を患って野球を辞めざるを得なくなった。
「鳥谷さんはそれ以来、こう考えるようになったそうです。自分だっていつ野球人生が終わるか分からない。今日帰る時、事故に遭って野球ができなくなるかもしれない。悔いが残らないように練習しておかないといけない、と。そんな話を聞かせてもらって、自分も強く感じたんです。死ぬ時に後悔をゼロにするのは難しいけど、できるだけ後悔の数を少なくしたいなって」
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