#1067
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[大器のターニングポイント]愛されて、羽ばたいて 2018年の板倉滉

2023/01/26
'18年、板倉はリーグ、カップ戦通じて32試合3得点。ファンが選ぶ年間MIP賞を受賞した
この1年があったからです――。ヨーロッパへ渡ることになった時、彼は“恩人”にそう語った。サクセスストーリーは5年前、川崎育ちの若武者が新天地である仙台に降り立ったときにはじまった。かつて試合出場もままならなかった男はこの地で開花し、やがてW杯でレギュラーの座を掴んだ。共に勝利を追い求め、加速度的な成長を目の当たりにした3人の男が、運命のシーズンを振り返る。

「ナベさん、滉があそこまでの選手になると思っていましたか」

 列島を熱狂させたカタール・ワールドカップの余韻が残る年の瀬。2018年にベガルタ仙台の監督として、まだ試合経験の乏しかった板倉滉をシーズンを通して起用した渡邉晋(現モンテディオ山形コーチ)は、川崎フロンターレの鬼木達監督から投げかけられた言葉に対し、「思わなかったよ」と正直に答えた。和やかな会食の席で同じ質問を返すと、'17年まで川崎Fのコーチ、監督として板倉を指導した旧知の男も「僕もです」と苦笑した。潜在能力の高さこそ感じていたものの、板倉が日本代表のセンターバックとして世界の大舞台に立ち、優勝経験のあるドイツ、スペインの猛者たちと互角以上に渡り合う姿は、想像できなかったという。

 飛躍のきっかけとなったのは海外移籍。'19年に渡欧し、オランダのフローニンゲン、ドイツのシャルケ、ボルシアMGで経験を積み重ね、改善の余地があった守備面を見違えるほど向上させていた。ヨーロッパのクラブから獲得オファーを受けたのは'18年、プロ4年目の終わりを迎えた頃だ。ジュニア年代から過ごしてきた川崎Fを離れ、レンタル移籍で加入した仙台でシーズンを過ごしていたときである。

「この1年があったから、海外からオファーが来たんです」

 当時、仙台で強化育成本部長を務めていた丹治祥庸(現山形GM)は、21歳の板倉が日本を発つ前に電話越しに残した言葉をよく覚えている。あれから約4年。転機となった『板倉の仙台時代』について、取材を受けることを事前に本人へ伝えると、「何でも話しちゃってください」とメッセージが返ってきた。

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photograph by J.LEAGUE

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