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「やっぱり指名できない」“ビデオ出演スキャンダル”で指名漏れ…元日ハム・多田野数人が語る24年前のドラフト「マスコミがたくさん来て…」
text by

近藤裕介Yusuke Kondo
photograph byJIJI PRESS
posted2026/10/31 11:01
立教大学時代の多田野数人氏。ドラフト会議では即戦力候補として上位指名確実と目されていたが……
「あの週刊誌の件があったとき、私はもう大学の寮にいられなくなってしまったんです。マスコミの方たちがたくさん来てしまうので。そうしたら、大学の同期で寮を出て近くに住む予定だった友達が、『俺の家、おまえが使っていいよ』って言ってくれて。結局、何週間も住まわせてもらうことになるんですけど、本当に助かった。そういう、たぶん1、2割ぐらいの離れずに助けてくれた方とは、今でも付き合いがある。当時、自分では何もできない状況だったので、周りのサポートがなかったらどうなっていたんだろうと思います。 すごく感謝しています」
野球の面でも同様に、多田野を信頼して協力してくれる人に恵まれた。
「例えばですね、サポートしてくれていた用具会社は、大学4年間ずっとお世話になったんですけど、週刊誌の件で電話がかかってきて『多田野さん、お世話になりました。ちょっともう、これからは面倒を見られないです』と言われてしまった。そうしたら数日後に、ミズノの方から連絡があって、『多田野、何か困ったことがあったらいつでも連絡してこい』と。 その言葉一つが、本当にうれしくて。ぽっかり空いた心の穴を埋めてくれたような気がしたんですよね」
週刊誌報道はアメリカでも問題視され……
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周囲の力も借り、徐々に前向きな気持ちを取り戻した多田野は、一つの決断を下す。
「もう日本のプロ野球は、望みがなくなった。じゃあ、ここから野球をどうしようかとなったときに、社会人とかからもお話をいただいたんですけど、どうせだったらアメリカに行こうかって。もちろん、自分一人で判断することはできなかったので、いろんな方のお話を伺って、サポートしてくださる方がいて、アメリカに挑戦させてもらうことになりました」
意気揚々と渡米したわけではない。胸の内は、不安で埋め尽くされていた。
「不安しかないですよ。ただ、もう行く道がそこしかなかったので、仕方ない。先が見えなくて、何メートル先にゴールがあるのか分からない中で、全力疾走するしかない。そんな感じでした」
無事にインディアンス(現ガーディアンズ)と契約を結び、2003年シーズンからマイナーリーガーとしての生活をスタートさせた。しかし、週刊誌報道の件はアメリカでも問題視され、翌2004年の1月、米国で記者会見を開くこととなった。
《第3回につづく》


