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「もう二度と、スワローズと関わりたくない」高津臣吾が味わった絶望…古田敦也も絶句「この人は何を言っているんだ」「敬意、感謝はないのか…」
text by

高津臣吾Shingo Takatsu
photograph byHideki Sugiyama
posted2026/10/09 06:01
2007年、古田敦也選手兼監督(左)の引退試合でバッテリーを組んだ高津臣吾
せめて、引き際を相談するような配慮があってもいいのではないか?
このときの僕の胸の内には、そんな思いがよぎらなかったと言えば嘘になる。
ある関係者から無神経な言葉「呆れるしかなかった」
それでも、それがこの球団の、あるいはプロ野球界の古い体質なのかもしれないと自分を納得させた。いや、頭ではそう理解していても、心からの納得は無理だった。
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このとき、ある球団関係者から、「オレは(クビになるのを)知っていたんだけどな」という無神経な言葉を投げかけられた。「この人は何を言っているんだ」と呆れるしかなかった。それ以上に食い下がる気力は、僕にはもう残っていなかった。
すぐに古田さんに電話をすると、「えっ?」と絶句していた。
監督さえあずかり知らぬところで行われた人事だったのだろう。ファンの方々に対しては、最後にあいさつもできず、フェードアウトするように去る形になり、申し訳ないという気持ちはあった。ただ、そのときの僕は、あまりに理不尽な通告を受けたショックから、「もう二度とスワローズとは関わりたくない」とさえ思っていた。
ファンからの温かいメッセージの束を渡されたりもしたけれど、当時の僕にはそれを受け止める余裕もなく、何もせず、何も言わずに去ることこそが、今の自分にできる唯一の意思表示だ。そう考えていた。
その後、他球団からのオファーを待つ気持ちがなかったわけではない。
セ・リーグの他球団へ行ってスワローズを抑え込むという反骨心も、頭の片隅にはあった。しかし、どこからも正式なオファーは届かなかった。
「まだやれる」という自負と、「これが今の自分の立ち位置なのだ」という冷徹な現実。プロの世界、本当に実力があれば、どこかが必ず手を差し伸べるはずだ。
それがなかったということは、当時の僕のピッチャーとしての価値が、その程度のものだったということなのだろう。
スワローズを離れることが決まったとき、僕が決意したのは「野球を辞めるのを、やめる」ということだった。
もしも、球団が他の選手と同じように正式な手順を踏んで引退の相談をしてくれていたら、あるいは僕も「わかりました」とユニフォームを脱いでいたかもしれない。
けれども、あんな終わり方だったからこそ、僕の心には猛烈な闘志が再燃した。
(こんな形で終わってたまるか。どこでもいい、投げられる場所があるのなら、どんなところであっても、投げ続けてやろう……)《第3回につづく》
高津臣吾の著書『愛と哀しみのスワローズ』(KADOKAWA)

