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先輩の“かわいがり”に「そんなら、一生懸命投げへんけど」反骨エース・牛島和彦が大阪の名門校に進んだワケは「V9巨人の大物に直々に誘われて」

posted2026/09/17 11:00

 
先輩の“かわいがり”に「そんなら、一生懸命投げへんけど」反骨エース・牛島和彦が大阪の名門校に進んだワケは「V9巨人の大物に直々に誘われて」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

浪商で「ドカベン」香川(左)とのバッテリーを組み、春夏連覇を果たした箕島とも名勝負を繰り広げた牛島和彦(右)の高校時代とは?

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元永知宏

元永知宏Tomohiro Motonaga

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1979年、甲子園春夏連覇を果たす箕島と名勝負を演じることになる浪商のエースが、牛島和彦だった。箕島との激突に至るまでの快進撃とは?〈連載『日本野球1979』「箕島春夏連覇編」全4回の1回目/つづきを読む

 プロ野球で名を残す選手のなかには、高校時代からさまざまな伝説を持つ者が多い。高校野球の名門として知られた浪商(現・大体大浪商/大阪)のエース・牛島和彦もそのひとりだ。

 上下関係が厳しい野球強豪校にあって、厳しい指導を受けたあと「そんなことするんなら、あんたらがおるうちは一生懸命に投げんからな」と先輩に向かってタンカを切ったというエピソードがある。牛島のヤンチャさを表すものだ。

 巧みな投球術と度胸を武器にプロ野球で通算53勝、126セーブを挙げた牛島にその問いを投げかけると、笑いながらこう言った。

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「さすがに入学してすぐは言えませんでしたよ。3年生が抜けてから、ひとつ上の先輩に『一生懸命投げんけど、ええんかなあ……』とそっぽ向いてボソッとつぶやいただけ」

 そのつぶやきで待遇改善がなされたかどうかは不明だが、主戦を任された牛島は自らの投球によって、1978(昭和53)年の2年生の春、3年生の春・夏と在学中に3度の甲子園出場を果たした。

牛島が浪商に進学することになったわけ

 浪商野球部は1924(大正13)年、浪華商業学校野球部として創部された。1937(昭和12)年春のセンバツ(第14回全国選抜中等学校野球大会)で初優勝を飾り、1946年夏、1955年春、1961年夏に日本一にのぼりつめた。OBには、張本勲(東映フライヤーズなど)、尾崎行雄(東映フライヤーズ)、巨人のV9時代を支えた高田繁などが名を連ねている。

「僕は奈良県に近い大阪府で育ちました。中学時代は準硬式野球をしていて、浪商に誘われていたんですけど、その頃の浪商は弱くて『甲子園に行かれへんから嫌です』と断っていました。自分では天理(奈良)に入るつもりでした。強豪と言われるところに行けばしんどいのはわかっている。『それなら、甲子園に行けるところに』と考えました」

 ところが、意外なところから横やりが入った。

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