甲子園の風BACK NUMBER
「敬遠しろ」指示に「黙って見とけ!」伝説の箕島戦でセンバツ史上唯一の大記録を食らった“あのエース”は「えっ、僕だけなの? これから自慢しよう(笑)」
posted2026/09/17 11:01
箕島と浪商が名勝負を繰り広げた1979年センバツ決勝戦。浪商のエース牛島は力投するが、箕島の四番・北野にまさかの大記録を許す
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元永知宏Tomohiro Motonaga
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AFLO
1979年、春のセンバツ。浪商のエース、牛島和彦は決勝戦で箕島と激闘を繰り広げることになる。〈連載『日本野球1979』「箕島春夏連覇編」全4回の2回目/つづきを読む〉
3度も日本一になった浪商(大阪)だが、1969(昭和44)年春のセンバツでベスト4入りしたあと、甲子園の勝利から遠ざかっていた。牛島和彦が2年生で出場した1978年春のセンバツも、初戦で敗れていた。
「だから、(1979年のセンバツでは)僕たちはまず1勝しようというのが目標でした。1回戦で愛知(愛知)に6対1で勝ったけど、試合後、どうやって整列していいのかわからなかったんです(笑)。
2回戦で高知商業に3対2で勝ちました。自分の犠牲フライで点を取って、自分でも乗っていけた。逆転のピンチで味方のファインプレーが出てなんとか勝てたという試合でした」(牛島)
疲れで直球がへたって、フォークでも投げてるのか、と
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準々決勝の川之江(愛媛)戦は降雨のなかで行われ、3対3のまま延長戦へ。浪商が13回にサヨナラ勝ちをおさめた。
「本当に、やっと勝てたという試合で、僕は200球以上を投げました。翌日の東洋大姫路との準決勝は疲労が溜まっていて、全然ダメでした。体がまったく言うことを聞いてくれないけど、控えのピッチャーに任せることはできません。僕がひとりで、最後まで投げるつもりでした。ストレートの最速は120キロの後半。キャッチャーの手前で落ちるので、『フォークボールでも投げてるのか』と思われたくらいでした」
現在は準々決勝の翌日と準決勝の翌日に休養日が設けられているが、20世紀の高校野球ではそんな日程は考えられなかった。エースが連投するのは当たり前。しかし、いくら鍛えていても、本来の力を発揮することはできなかった。

