甲子園の風BACK NUMBER
「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
posted2026/08/27 06:01
1979年夏、公立高校として史上唯一の甲子園春夏連覇を果たした箕島。尾藤公監督(左から2人目)は当時としては常識破りのコンディショニング方法を取り入れていたという
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元永知宏Tomohiro Motonaga
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JIJI PRESS
「江川トレード事件」、「西武ライオンズ誕生」、「箕島高春夏連覇」、「江夏の21球」……このすべてが起きたのが1979年である。今にして思えば、日本野球界の新たな勢力図の兆し、そしてスポーツ文化の変容の萌芽がこの年に見えていたとも言える。1980年『Number』創刊の前年、日本野球界の地殻変動を関係者への取材で振り返る大型連載! 小さな町の県立高である箕島はなぜ強かったのか。そこには、当時としてはきわめて先進的なさまざまな取り組みがあったのだという。〈連載『日本野球1979』第20回「箕島春夏連覇編」/つづきを読む〉
甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。
エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。
箕島は練習中も適度に水分補給をしていた
「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。
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夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」
半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。
「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」
楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。

