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甲子園の風BACK NUMBER
「とんでもないところに来てしまった」意外にも30年甲子園なし…元木大介・黒田博樹を輩出した大阪の雄・上宮高のいま「令和に変えるべきは変えて」
text by

内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida
posted2026/08/18 11:00
名門・上宮高を現在率いる村田監督。1997年神宮大会優勝の記念樹と石碑の前で
しかし、2004年、最後の夏は、思わぬ試練に見舞われた。不祥事によって1カ月間の練習自粛を余儀なくされ、万全とは言えない状況で挑んだ大阪大会3回戦で浪速高に4対11と大敗。「やり残した部分はありました」と、悔しさを胸に高校野球を引退した。
その後、関西学院大学で野球部に所属。そして同大学院での修士課程を修了し、教員となった村田さんが最初に赴任したのは、高校最後に敗れた浪速高だった。
「浪速で野球部の部長として過ごした2年間は僕の指導者人生においてすごく大きいです。高校野球における心遣いやグラウンドでのあり方、先輩後輩の上下関係といった人間的な部分を当時の監督さんから徹底的に教わりました」
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浪速での日々は充実しており、選手たちとともに本気で甲子園を目指していた。しかし2012年夏、舞洲で観戦していた母校の上宮とPL学園の一戦を見て、心が震えた。
もう一度、母校で
あの、夢にまで見た上宮のユニフォームにもう一度袖を通したい——。
そこから母校の教員試験にチャレンジし、2013年春から慣れ親しんだ学び舎へと戻った。
「グラウンドに初めて足を踏み入れた時に、並大抵の覚悟ではできないと胸が熱くなりました。現役時代の無念を晴らすために、何とかやっていきたいなという思いになりました」
そして2014年秋から監督に就任。大阪桐蔭や履正社をはじめとする強豪に挑み続けた。ただ、その壁は高く、大阪大会は2017年夏、2022年夏の4強が最高。2022年は同年センバツ覇者の大阪桐蔭に0対8と完敗し、その後、監督の座を退いた。ただ、ここからの空白期間が、指導者としての引き出しを大きく増やす転機となった。
「最初は『結果を出さなければ』という思いが強すぎて、視野がすごく狭くなっていたんです。勝利への執念から生徒を追い詰めるようなプレッシャーをかけてしまっていた部分もありました」
現場を離れたことで、客観的な視点からチームや指導法を見つめ直す余裕が生まれたという。

