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甲子園の風BACK NUMBER
板東英二の告白「ぼくはカーブが投げられんのです」甲子園の伝説“延長18回再試合”はこうして生まれた…じつは「ようできた優等生」旧友たちが語る素顔
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安藤嘉浩Yoshihiro Ando
photograph byスポーツ報知/AFLO
posted2026/08/16 06:00
1958年8月16日、壮絶な投手戦を繰り広げた板東英二(徳島商/左)と村椿輝雄(魚津/右)。0対0のまま延長18回を終え、引き分け再試合となった
村椿さんは15回が終わったとき、18回を終わって同点なら引き分け再試合と聞いたと記憶する。「あと3回、がんばれるかな」と思ったそうだ。
一方の板東さんは「ナイターで涼しいし、氷水が飲み放題。まだまだいけると思っていた」という。
そもそも、「延長18回引き分け再試合」という大会規定は、この大会前にできた。きっかけになったのが、ほかならぬ板東さんだった。約3カ月前の春季四国大会で、延長16回を投げて中1日で、決勝でも25回を投げたことから、球児の健康管理が議論となったからだ。
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そして、甲子園での適用第1号が、また本人になった。
「ぼくはカーブが投げられんのです」
その剛腕ぶりを物語るエピソードには事欠かない。
1958年当時は、木製バットで、打者のヘルメットは義務づけられていなかった。徳島商は板東さんが在学中にヘルメットを4個購入しているが、「その1個を、いきなり板東が割りよった」とチームメートが教えてくれた。コントロールもよかった板東さんだが、手が滑ることもあったのだろう。「練習で打席に立つのも怖かった」とその人は苦笑いしていた。
身長169cm(NPBのデータでは170cm)の板東投手が左足を大きくステップすると、ボールをリリースする位置が胸元ほどの高さになる。「そこから軌道が落ちんのよ。そんなわけはないのやが、ホップしてくるように感じた」とは魚津の選手の弁だ。
その剛球を毎日200~300球と受け続けた徳島商の大宮秀吉捕手は、「手のひらが腫れて何度も割れた」と当時を懐かしんでくれた。「あいつが一番大変だった。左手人差し指の付け根付近が腫れて、体育で鉄棒ができなかったほどだ」と語るチームメートもいた。
変化球はほとんど投げず、ほぼストレート一本勝負。
「ぼくはカーブが投げられんのです」。取材中に板東さんは「よう見といて下さい」と言いながら、数を数えるように右手の指を折り始めた。
親指、人さし指に続いて中指を折ると、薬指も一緒に曲がった。反対に小指から順に伸ばすときも、薬指と中指が一緒に動く。
「生まれつきなんです。そやからカーブは投げられん。変化球はプロに入ってから習いました」
リードした捕手の大宮さんは「フォークがよかった」という。プロ野球中日で活躍していた杉下茂投手の決め球だ。「板東も勉強家で、一緒に雑誌の分解写真を見ながら研究した」。右打者の外角へ滑りながら落ちたという。

