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「ブラジルでも勝てる」34歳で逝った松田直樹”規格外DF”のメンタル…JFA技術委員長が明かす“トルシエとの確執”秘話「もう途中で帰るは、ありえないぞ」 

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二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byAsami Enomoto

posted2026/08/15 12:01

「ブラジルでも勝てる」34歳で逝った松田直樹”規格外DF”のメンタル…JFA技術委員長が明かす“トルシエとの確執”秘話「もう途中で帰るは、ありえないぞ」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

2011年8月4日に急逝した松田直樹さん。15年を経た今、10代の頃から見守ってきた現JFA技術委員長の山本昌邦氏が松田さんの思い出を語る

 両者の間に入っていたのが、コーチの山本だった。松田が不満の表情を見せていると、決まって声を掛けた。

 山本が振り返る。

「そういうときはエキサイトしている状態なのですぐに話をしても仕方がない。『じゃあ何時にお前に部屋に行くから』と言って、間を置いてから話を聞いてあげる。そうすると大体は落ち着いていましたね。10代のころから知っていますし、ずっと見てきていますし、やっぱりそこは信頼関係があると思っています。直樹も、思ったことを話してくれていました。代表から離れるという相談を受けたときも『何より仲間の信頼を失うことになる。ここは最後まで我慢してやり遂げて、次に呼ばれたときに断ればいいんじゃないか』とも伝えました。『分かりました』とは言ってくれたんですけどね」

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 松田なりに我慢はあったのだろうが、結局は途中離脱の決断に至る。せっかくのチャンスをフイにしたのだ。

 だが、ストーリーはここで終わらない。トルシエは日本人選手には珍しく闘争心をむき出しにして行動に移す松田をずっと気にかけていた。

 反省しているのか? 代表に戻るつもりはあるのか? やる気はあるのか?

「もう途中で帰るは、ありえないぞ」

 リサーチを促された山本は松田に意思を確認し、「もう途中で帰るは、ありえないぞ」とクギを刺した。松田の予想を超えて、2000年2月のカールスバーグカップのメンバーに選ばれた。“造反帰国”から4カ月しか経っておらず、それも22歳にして初めてA代表入りだった。

 松田を改心させたのは言うまでもない。フラット3のラインコントロールを身に染みこませるまで反復した。離脱癖はどこへやら、いつしかトルシエから全幅の信頼を置かれるまでになった。連続した大会になる2000年のシドニーオリンピック、アジアカップ両大会のメンバーに選出された。このころはコンディションが上がらずに苦しんだ時期でもあったが、それでもアジアカップ制覇に貢献している。

 そして迎えた2002年の日韓ワールドカップ。ロシアとのグループステージ第2戦に勝利してワールドカップ初勝利を挙げる。右ストッパーとしてロシアの攻撃を抑え、無失点に封じる大きな役割を果たした。

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